2023.03.23 (木)TOPICS現代教養学部

「現代教養学部研究発表会」開催報告

3月6日(月)、現代教養学部学術委員会(主査・黒川知文教授)主催により、「現代教養学部研究発表会」が開催されました。この発表会は、現代教養学部における教育・研究の一層の充実と深化を図ることを目的とするもので、今回が初めての開催となりました。
各発表者からは様々なご専門の先生方にもわかり易いよう丁寧に説明され、また参加した先生方からは多角的かつ専門的な意見が出るなど、大変有意義な学際的研究発表会となりました。(各発表者の要旨は、現代教養学部学術委員会においてまとめました)

【発表者】内田 瑛 助教

論題:「文系学部生は教養として人工知能について何を学ぶべきか」

【要旨】
文理を問わず、すべての学部生が人工知能やデータサイエンスについて学ぶことが強く推奨されており、本学でも学部1年生からデータサイエンスを学べる共通科目が設置された。しかし、人工知能やデータサイエンスの活用は多岐に渡るものの、社会科学系と比べて人文系の学生が学ぶ意義は、文部科学省の資料(数理・データサイエンス・AI教育プログラム)からもはっきりと見いだせないとの問題点がある。
人文系に関心の強い学生にとっては、モデルカリキュラムのままでは、その後の大学での学びや関心に結びつけることが難しい可能性があるため、現代教養学部の学生は、人工知能について何を学ぶべきなのかについて検討が行われた。

内田先生

内田 瑛 助教
人工知能に関する社会的関心を探るために、国立国会図書館の書誌情報から書名の傾向を分析した。書名から見えた話題は3つである。1)人工知能の仕組みや技術的課題に関すること、2)人工知能によってどのような社会変化や問題が起きるのかということ、3)人工知能を通して、人の心や脳について考えを深めるもの、である。これら3つを意識しながら、「現代教養入門Ⅱ」において4回の授業を実施した。授業の概要と、学生の反応を示すレポート課題の一部が紹介された。
以上の分析を踏まえ、人工知能社会における新しい教養力の具体像として、「人工知能の仕組みと、技術的課題(限界)を知る」「人工知能の活用によって、実現できる事例を知り、起こりうる新たな社会問題、倫理的問題を考える」「人工知能を通して、人間の心や文化を考える」の3つが提示された。

【発表者】齋藤 暢人 准教授

論題:原広司「〈部分と全体の論理〉についてのブリコラージュ」解読

【要旨】
これまで、全体部分論の哲学を中心に研究してきたが、今回の発表では、日本を代表する建築家である原広司の思索の構造ないし骨格を分析することで、現代形而上学の基本的問題系のひとつを提示していく。
原広司の作品には、飯田市美術館、ヤマトインターナショナル、JR京都駅、梅田スカイビル、札幌ドームなどがある。実作の一方で、かなり以前から理論的な考察を展開しており、著書が多数あり、思想的な傾向が強い建築家として知られている。
原の主著のひとつである『空間〈機能から様相へ〉』のうち、論文「〈部分と全体の論理〉についてのブリコラージュ」に本発表では焦点を当てていく。同論文では、近代建築における「部分と全体」とは何かが問われ、全体と部分に関する優れた感性的表現が見られる。

齋藤先生

齋藤 暢人 准教授
原は、建築の近代的前提を相対化し、建築の可能性を明らかにし、前近代的・非近代的建築のなかから、部分と全体の多様な形態、論理を読み取っている。多様な建築様式に関して、原は大規模な現地調査を行っている。その成果はいくつかの著書で見ることができるが、建築の著作というよりはもはや文化人類学の研究といった趣がある。
原が頻繁に言及するのはフッサールの『論理学研究』における全体部分論である。原は「全体という概念は常になしで済ませることができる」というフッサールの言葉に注目する。全体と部分のあいだには多様な対立の様態があり、これらの関係をどのように表象するかによって全く異なる空間が想定されると考えることができるであろう。
また、原の思想のキーワードには、様相、境界がある。様相には二つの意味がある。ひとつには「必然性」「可能性」のような形而上学的概念、もうひとつには実体を構成する属性である。様相は数学的には位相と等価であり、空間の基本構造を記述できる。境界は空間における重要な要素であり、建築においても無視できない本質的な要素であるが、数学的には外部でも内部でもないところとして、位相によって記述される
フッサールは『論理学研究』第三研究「全体と部分の理論」において、現象における諸部分の関係を記述するための形式的存在論のプログラムを提示し、そのうちの独立的部分に関する発展はメレオロジーと呼ばれる理論に結実した。
メレオロジーとは、部分と全体の関係を扱う理論・視座のことであり、論理学者レシニエフスキによって開発された形式的体系であるが、のちにそこから派生して様々な問いを含むようになった。メレオロジーの代表的な研究者であるヴァルツィらはHoles and Other Superficialitiesなる一書を著し、穴は存在するのか、存在するとすれば、穴は実体なのであろうかを問うている。
原の処女作『建築に何が可能か』には、建築を、穴をもつなにものかとしてとらえようとする思想がみられる。そのようなものを原は「有孔体」とよび、建築は、穴と境界からなる何ものかであるとしている。これは原の建築哲学が現代空間論の本質をついていることの証左だと言える。
このように、原の思想はメレオロジーと並行している。それは空間についての直観をより正確に表現しようとする努力の結果である。ということは、その思想的営為の原動力となっているのは、むしろ現象学的な、事象そのものへの問いかもしれない。メレオロジーが直観に形を与えるのである 。
原の思想のなかには、ホワイトヘッドへの言及がない。もしホワイトヘッドの思想によって建築を語るとしたらどうなるであろうか。建築とは、持続する建屋を作ることなのではなく、それが内包する空間としての穴、いろいろなものがそこを通り抜けている場のようなものを生み出すことである、ということにでもなるのであろうか 。

【発表者】望月 哲男 教授

論題:トルストイとガンディーの「対話」(日露戦争を中心に)

【要旨】
非暴力思想によって20世紀世界にインパクトを与えたトルストイとガンディーの20世紀初頭における関係史から、特に、日露戦争(と直後の第1次ロシア革命)に際してのトルストイの主張とガンディーの「学び」の様相を、トルストイの反戦アピール「悔い改めよ」と、週刊紙『インディアン・オピニオン』へのガンディーの寄稿からたどっていく。
トルストイは、文学者として著名なだけでなく、無政府主義的な社会活動家の側面をもち、徹底した反権力的な思索と行動、反ヨーロッパ的な非暴力主義とその活動は、文学・政治を超えた宗教の世界にも及んでいる。

望月先生

望月 哲男 教授
1828年に誕生したトルストイの活動は19-20世紀に及んでいるが、発表では、裕福な貴族に生まれ、相続した農地における農民の生活改善とその挫折を経験した青年期から晩年に至る思想的変遷が述べられ、特に、1900年代に入ると非暴力主義が深化し、革命や議会的手法への幻滅から反西欧とアジアへの期待が示されるようになる。1901年にはロシア正教会から破門の措置がなされ、その措置は今に至るまで取り消されていない。
1869年に誕生したガンディーの活動は、19-20世紀に及んでいるが、ロンドンで学んだのち弁護士となり、南アフリカで弁護士活動をする傍らで公民権運動に参加している(南アフリカ体験)。また、南アにおいてトルストイを集中的に読む中で、『神の国は汝の内にあり』という書物にふれ、「この書は私を圧倒した。他の書物はすべて色あせ、意味を失った」との言葉を残している。
ボーア戦争(1899~1902)と日露戦争(1904~1905)に直面したトルストイは「ボーア戦争と日露戦争は世界的災疫を起こしかねない」との認識から、『悔い改めよ』(1904)を著し、同論文では、日露戦争で戦火を交える日本とロシアを批判し、戦争は誰にも無用かつ無益であり、人類の愚かさを示すものであること、指導者は危険を冒さず、愛国心の名のもとに殺人事業を促進していると批判し、軍人、外交官、新聞記者、皇帝等々の立場から祖国を守る発想をする前に、まず人間として「殺すなかれ」の教えに帰れ、「汝の敵を愛せよ」と説諭している。この説諭は、後のインド独立運動の指導者ガンディーの非暴力を掲げた植民地解放につながっている。
日露戦争に対するガンディーの反応は、週刊紙『インディアン・オピニオン』の寄稿に多数見られるが、そこには一種の矛盾と見られるものが含まれている。つまり、強力な国家権力の下の国民の不幸、役人の横暴というロシアとインドの共通性を見出すとともに、大国に挑戦する日本の愛国心、無私団結、尚武の精神、身体鍛錬、教育をインドの独立の観点から賛美している。一方で、清貧、悪に善で報いること、非暴力、非戦、反政治、反権力、農の重視、庶民の味方という思想的観点からトルストイを賛美するとともに、反乱やテロルに代わる平和的な反権力運動としてロシア的ゼネストを評価している。
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