学校法人中央学院
    School corporation Chuo Gakuin

      理事長挨拶

      2023(令和5)年10月1日 理事長メッセージ(10月1日法人学校起源123年目に寄せて)-2023(令和5)年11月30日改訂版-

      「日本橋簡易商業夜學校」開校前夜の物語①②③-2023(令和5)年11月30日改訂版-

       学校法人中央学院の学校起源前夜の経緯は、(0)「日華學堂」から始まり⇒(1)「日本橋商業中學」構想⇒(2)「東京佛敎商業學校」構想⇒そして(3)「日本橋簡易商業夜學校」設立⇒(4)「中央商業學校」設立へと続く。
       創立者たちの学校設立構想の中心にあった(1)「日本橋商業中學」は、(3)「日本橋簡易商業夜學校」設立時でもこれを放棄していない。125周年記念事業周年史編纂に際し、理事長として必ずしもこれまで明確に伝承されてこなかった学校起源前夜の系譜を改めてここに整理をし、既に2023(令和5)10月1日HPで公表した開校前夜の物語①②③の改訂版をここに再録する。
       今回の改訂部分の多くは、2023(令和5)年10月17日・18日龍谷大学・中西直樹教授の125周年記念講演内容とその講演資料を参考としている。改訂の中心は、前田慧雲は西本願寺西山教校、佐竹観海が西本願寺大教校出身が判明し法人の過去の歴史の訂正、当時の築地居留地など日本橋の状況補足、高楠順次郎伝承の建学の精神の類似した戒めの言葉の紹介、教誨師問題の補足、日本橋簡易商業夜學校の原型と思われる京都「慈善会」の夜学校の紹介、脚注の整理、その他文言修正である。

                              第11代理事長 椎名市郎

      学校法人中央学院学校起源の夜明け前「日華学堂」について
      日本橋簡易商業夜學校開校前夜の物語①
      【1】学校法人武蔵野大学と学校法人中央学院
       令和4(2022)年7月19日、本法人同様、高楠順次郎を学祖として敬う「学校法人 武蔵野大学」の石上和敬副学長先生、三上嘉賢総務部長がご来校された。その趣旨は、武蔵野大学100周年記念事業を契機に、同じ高楠順次郎を学祖(創始者)とした二つの大学間の交流であった。
       その後、石上副学長先生より、訪問の礼状と欒殿武(らん ひろたけ)・柴田幹夫編著『武蔵野大学シリーズ14 日華学堂とその時代―中国人留学生研究の新しい地平―』(武蔵野大学出版会)のご恵贈を受けた(以降、玉書と称す)。この玉書は、当職に新たな角度で本法人学校起源の夜明け前の歴史を学び直す機会を与えてくれた。
      【2】「日華學堂」(明治31(1898)年)と日本橋簡易商業夜學校(明治33(1900)年) 
       結論から言えば、高楠順次郎(たかくす じゅんじろう)の学校づくりの原点がこの「日華學堂」にあり、ここに参画した高楠順次郎はじめ、梅原融(うめはら とおる)、宝閣善教(ほうかく ぜんきょう)、桜井義肇(さくらい ぎちょう)らが、「日華學堂」での学校経営を活かし、「日本橋商業中學」構想や「東京佛敎商業學校」構想を経て、「日本橋簡易商業夜學校」(明治33(1900)年)と「中央商業学校」(明治35(1902)年)を設立したことにある。
       学校法人中央学院学校起源の原点にあるこの「日華學堂」は、125年に及ぶ本法人の歴史に足跡は残すものの1これまで十分な歴史の検証とその継承がなされてこなかった。玉書によれば、日本橋簡易商業夜学校開校前夜の明治31(1898)年 7月、高楠順次郎は外務省次官・小村寿太郎の依頼と補助金を得て、東京本郷西片町に清国・派遣留学生の帝国大学、高等専門学校入学の速成予備科「日華學堂」を創設した。
      【3】「日華學堂」の歴史と学校法人中央学院 
       この玉書では、清国の留学生速成予備校であった「日華學堂」の凝縮された2年2ケ月(明治31(1898)年7月から明治33年(1900)年9月)の歩みが、その歴史的背景や教育内容・学堂運営・留学生生活、そして、卒業生の多方面にわたる活躍が記されている。玉書は、宝閣善教の「日華学堂日誌」の資料を掘り起こし、他の文献を丹念に渉猟・分析し、現代に通じる留学生教育の足跡を論じた労作である。
       「日華學堂」の学校運営を担ったのは、総監・高楠順次郎、初代堂監・中島裁之、二代目堂監・宝閣善教、主監・梅原融らであった。高楠順次郎は英語、宝閣善教は英文法、梅原融は物理・化学・会話・読解を担当する教師2として、三者は10年ぶりに東京で再会を果たす。これに西本願寺普通教校同窓の桜井義肇が「日華學堂」での地理担当の教師として就任する。
      【4】反省会と建学の精神の萌芽 
       高楠順次郎の「日華學堂」運営に協力をしたのは、修養団体「反省会」運動3の同志で西本願寺普通教校(後の文学寮)同窓生で僧籍を有していた者が中心であった。禁酒を謳うこの「反省会」は、京都で新島襄が創設したプロテスタント系の同志社を意識したものであった。同志社では、禁酒の禁欲的な規範を保ち、プロテスタンティズムの誠実、勤勉な徳の倫理を重視する学風であった。
       それに対し、当時の日本の学校に蔓延していた飲酒による風紀の乱れであった。これを若き仏教学徒が教育の危機として改革を求める運動が「反省会」であった。特に、学校の風紀の乱れ以外でも商業(商売)の世界は、政治と結びついた政商が主流で、士農工商の最下層「商」の通り、商業活動は倫理の外に置かれていた。
      【5】学校法人中央学院の学校起源創立者“7人の侍” 
       玉書、第三章において柴田幹夫博士が、本学の創始者でもある高楠順次郎(日本橋簡易商業夜学校校主)はじめ、梅原融(同校主監・西本願寺派布教師)、宝閣善教(中央商業高等学校第二代校長・西本願寺派僧侶)の活躍を詳しく論述している。高楠順次郎・梅原融・宝閣善教は、いずれも西本願寺普通教校(後の文学寮)の同窓生であった。
       仏教的信仰によって培われた信念と商業理論・実技による立派な商士4(士魂商才5)を育成する教育機関の設立に共鳴した高楠順次郎、宝閣善教、梅原融、桜井義肇のいわゆる学校発起人“7人の侍”の内、4名が「日華學堂」に集ったことは玉書の歴史的資料で確認できた。
       残る西本願寺西山教校出身の文学博士・前田慧雲(まえだ えうん)と西本願寺大教校出身の佐竹観海(さたけ かんかい)、そして、西本願寺普通教校出身の酒生恵眼(さこう えげん)は、「日華學堂」との関連は不明である。創立者の一人・酒生恵眼は、「日華學堂」より「反省会」の「反省(会)雑誌」の編集に参画した同志6であり、高輪佛教大学学長を経て私立大阪商業学校(現、大商学園高等学校)校長になり、強固な意志を有した人物であった。
       1900(明治33)年6月16日、高楠順次郎宅にこの“7人の侍”が集まり、日本橋簡易商業夜学校設立を決議した。この7名の創立者の結びつきは5名が西本願寺普通教校(後の文学寮)同窓生、前田慧雲が西本願寺西山教校、佐竹観海が西本願寺大教校出身の僧侶であった。以外にも、反省会の活動や1902(明治35)年開設の西本願寺の仏教高等中学(文学寮後身)や高輪仏教大学にも足跡をみることができる。
       仏教高等中学には“7人の侍”が集結しているが、特に、高輪仏教大学では、酒生恵眼(学長)、佐竹観海(教頭)、高楠順次郎(東洋哲学)、梅原融(文章学)、宝閣善教(英語、法制史)、前田慧雲(仏教通史)、桜井義肇(作文)の7人が揃って教鞭をとっている7。また、梅原融、宝閣善教、酒生恵眼、佐竹観海の4名は福井県出身の同郷の同志でもあった。彼らは普通教校の中でも「越前組」と称され、「広島組」や「熊本組」と対峙関係にあった8
      【6】125年の歴史から学ぶ回顧と展望
       我々がこのような中央学院の歴史的事実を考察する際は、125年の回顧や歴史の重みに対する先人への畏敬以外に、激動している現在の法人の状況に解を求める有機的因果関係を探ることにある9。まさに、「古人の跡を求めず、古人の求めるところを求める」10である。
       その意味で、我々が歴史的事実から学ぶことは、いつの時代も教育の創造・発展は、まず共鳴を抱くリーダーの下に同志が集まり、その同志が役割分担をしあって形成してきたことにある。理想を掲げる組織を象徴する人物、その人物の理想を実現するために共鳴して奔走する仲間、そして、理想と現実の谷間で教育実践する熱意ある現場実践教育者という構造である。
       翻って現在、理事長、学長、校長は、理想を掲げ人徳を得て同志を募っているか。副学長、学部長、教頭は理想実現のために役割分担して教育に奔走をしているか。教育現場に立ち全身全霊で教育に携わる教員は、高楠順次郎の総合的人間力の基本である建学の精神を学生・生徒の手本として遂行しているか。他人を批判するだけの能力にのみ長けて、己を厳しく見つめ研鑽を積むことを忘れてはいないか。“立ち向かう人の姿は我が身なり”の謙虚さを忘れてはいないか。これらの問いかけは、先人が混迷する現代を生き抜くために我々に常に問う自戒への歴史の魂の叫びともいえる。まさに、「古人の跡を求めず、古人の求めるところを求める」ことなのである。
      【7】再び、建学の精神再考
       高楠順次郎の言葉(伝承-出典不明)として現中央学院大学中央高校の歴代校長が引き継いできた言葉(学校法人中央学院、中央学院大学中央高校、中央学院高校の建学の精神)は以下のようである11。佐藤義則元中央学院大学中央高校校長の伝聞によれば、次頁の言葉は高楠順次郎が仏典を手元におきながら、当時の関係者に口頭で教示したとのことであるが12、今となってはその真偽は定かではない。
         「誠実に謙虚に生きよ
            温かい心で人に接し
              奉仕と感謝の心を忘れるな
                常に身を慎み
                  反省と研鑽を忘れるな」

       これは、学生・生徒ではなくその模範を示す教職員へのメッセージとして受け取るべきと考える。高楠順次郎の言葉-いわく「(学校に)修身(道徳)の科目は必要としない。教師がみな修身の教師だからである」が伝わっている13。この建学精神の中心は、冒頭の「誠実」にある。中央商業高等学校では玄関に校是として「誠実」の額(卒業生・松丸長三郎筆)が掲げられていた14
       この高楠順次郎の建学の精神が、大学創生期の第二代、四代、六代学長石本三郎の下での以下の中央学院大学の建学の精神へと繋がる。
           「公正な社会観と倫理観の涵養」
       なお、中央学院大学設立趣意書の建学の精神は、中央学院大学学則第1条に明記されている「産学協同」であった(当時、証券会社からの3億8千万円の出資を得ての証券大学構想は、昭和39年後半から40年にかけての証券不況大パニックでとん挫をする)。
       また、「公正な社会観と倫理観の涵養」以前の初代学長・湯村栄一の開学時の訓示の言葉は、現在も本館1階正面入り口に掲げられている苗剣秋15の「宿命に生れ、運命に挑み、使命に燃ゆ」であった

      ここに末文で失礼ながら、隆盛をほこる学校法人・武蔵野大学の2024年創立100周年(1924年-2024年)に対し、当法人挙げて衷心より祝意を表したい。また、2025(令和7)年10月1日、当法人も苦節125年目の祝いの秋を迎える。

      HPバナー学校法人中央学院創立125周年記念事業ロゴ

       2023(令和5年)10月1日
       学校法人中央学院学校起源日
      (日本橋簡易商業夜学校開校記念日)

      *(2023(令和5)年10月1日上記理事長HP メッセージを加筆修正したものを再録し、その後同年11月30日にさらに一部内容改訂したものを再掲載している)

      日本橋簡易商業夜学校校舎

      1900(明治33)年10月1日創立
      日本橋簡易商業夜学校校舎

      初代校舎「三層楼」

      1902(明治35)年5月5日創立
      中央商業学校校舎

      1中央学院八十年史刊行部会編『中央学院八十年史』(中央公論事業出版)、昭和57年、54頁~55頁。中央学院百年史編集委員会編『中央学院100年史』(学校法人中央学院)、平成14年、30頁~31頁。
      2欒殿武・柴田幹夫編著、『武蔵野大学シリーズ14 日華学堂とその時代―中国人留学生研究の新しい地平―』(武蔵野大学出版会)2022年、180頁。
      3「反省会」とは、当時の学校に蔓延していた飲酒の風紀の乱れを反省し、徳を積み人間の理想を求め、仏教精神による社会変革を訴える運動を意味する(欒殿武・柴田幹夫編著、同上書、160頁)。この背景には、当時、相次いで創設されたキリスト教系の規律あふれる学校への危機感があった。反省会は1886(明治19)年結成され、その論集「反省(会)雑誌」は、後の「中央公論」に改称される。
      4中央学院六十年史編纂委員会編『中央学院六十年史』(中央公論事業出版)、昭和38年、「本学の沿革」4頁。
      5富士登茂太郎編集兼発行人『中央商業学校創立満十週年記念号』(中央商業学校々友会発行)、明治四十五年五月廿五日。慶応義塾大学学長・鎌田栄吉「士魂と商才」創立十周年祝賀会にける講演、15頁~21頁。明治45年5月5日の中央商業学校創立十周年祝賀会の講演では、鎌田栄吉学長とともに澁澤榮一氏も記念講演を行っている。
      6学校起源発起人“7人の侍”は、すべて「日華學堂」に集ったとの記述がある(中央学院百年史編集委員会編、前掲書、31頁)。しかし、前田慧雲、佐竹観海、酒生恵眼の3名と「日華學堂」との関係は玉書でも不明である。
      7中央学院八十年史刊行部会編、前掲書、68~69頁。
      8中央学院六十年史編纂委員会編、前掲書、494頁。
      9E.H.カー著、近藤和彦訳『歴史とは何か』(岩波書店)、2022年、29頁。
      10中央学院六十年史編纂委員会編、前掲書、56~57頁。空海の『性霊集』に源を発し、松尾芭蕉『風俗文選』および『韻塞』に述べられている言葉。<レファレンス事例https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000050814 2023.11.8アクセス>。
      11高楠順次郎の伝承の言葉は、菩薩の心にも通じる。
      「他に慈しみを与え 自ら行を律し 忍耐強く努力し 心を平静に保ち 知恵を磨くのが 菩薩であり 幸福をつかむ」(奈良 薬師寺・金堂教示 昭和41(1966)年9月)。また、宗派を越えて掲げられている「日常の五心」には、「すみませんという反省の心、はいという素直な心、おかげさまという謙虚の心、私がしますという奉仕の心、ありがとうという感謝の心」の仏教の教えが示されている。「金剛経」の布施・持戒・忍辱・精進‣禅定の六波羅蜜多の知恵もしかりであろう。
      12中央商業学校の歴史を一番詳しく研究をし、資料収集をしている中央学院大学中央高校事務主任・伊藤貴盛氏の情報による。
      13武蔵野大学学祖高楠順次郎研究会編『高楠順次郎の教育理念』(学校法人武蔵野女子学院)、平成17年、112頁。文中のカギかっこ部分は椎名が挿入。
      14中央学院六十年史編纂委員会編、前掲書、「Ⅱ 現代・展望篇」冒頭の写真、125~127頁、187頁。
      15苗剣秋(みょう けんしゅうー日本語表記)は、張学良と学友であり、西安事件の立役者といわれ、周恩来とも懇意であった。共産主義と日中の特性に関する批判的評論で有名。日本留学中、一高卒・東大文学部(中退)、高等文官試験に合格している。
      「日本橋商業中學」構想から「東京佛教商業學校」構想へ
      日本橋簡易商業夜學校開校前夜の物語②
      【1】    はじめに
       明治33(1900)年10月1日、学校法人中央学院の学校起源である日本橋簡易商業夜学校が設立、同年10月3日午後6時より22名の生徒を迎えて授業が開始された。京都の西本願寺(龍谷山 本願寺)宗門広報誌である「教誨一瀾」82号(明治33年12月11日)には、日本橋簡易商業夜学校設立と同時に「日本橋商業中學」の設立計画が紹介されている。この事実を123年に及ぶ法人の学校の歴史に加えるために、現在進行中の法人学校創立125周年史編纂の資料としてここに一文を認めることとした。
      【2】「教誨一瀾」82号(明治33(1950)年12月11日)記事
       西本願寺では、明治9(1876)年から本山の中に印刷所を設け、宗門の広報誌である「本山日報」の刊行を開始した。明治30(1947)年には現在の「本願寺新報」前身である「教誨一瀾」(きょうかい いちらん)が創刊された。この「教誨一瀾」82号(明治33(1900)年12月11日)には、本法人の学校起源に関して、下記の記事が掲載されている16
      【3】「日本橋商業中學」設立構想
       創立者たちは、明治33年10月1日日本橋簡易商業夜学校の設立前から、「日本橋商業中學」を開学することを決め文部省との交渉に入っていた。そして、文部省より明治33年中に「日本橋商業中學」が認可されれば、「日本橋商業中學」の具体的な教育内容や募集要項は明治33年中に広告する計画であった。その旨を伝える「教誨一瀾」82号の「日本橋商業中學」を紹介すれば以下のようである(下罫線は、筆者記入)。
      明治三十三年十一月六日
       日本橋商業中學及日本橋簡易商業夜學校設立廣告
       日本橋區少年子弟及各商家に養はるゝ店員を教育せんが爲に今囘區内有力者の賛成を得て商業中學及簡易商業學校を開く                
      一 校舎は日木橋蠣殻町三丁目十一番地杉村甚兵衛所有家屋(元有樂館)を以て之に充つ
      商業中學は來年四月を以て開き商業夜學校は來る十月一日を以て開く
      商業中學に関する詳細の事項は本年成立の時別に廣告すべし
      【4】「日本橋商業中學」設立構想の頓挫の事由
       日本橋商業中学校の設立中止の経緯は、中央商業学校創立満十週年記念号「回顧十年」で、宝閣善教(ほうかく ぜんきょう)が以下のように述べている17。結論から言えば、「日本橋商業中學」設立構想の頓挫の事由は、認可する文部省の行政指導やその背後にある当時の国策(日清戦争後の産業復興)にあったことがわかる。

       「最初は中学校を起こそうという考えで、小石川で千坪余の土地を三井家から借りて置いたのであるが、文部省の当事者などとも種々相談して見た結果、当時局長であった澤柳氏等は中学校も必要であるが、日清戦役後実業界の勃興に連れて実業教育の期間が特に今日の時勢には必要であるという意見で、発起者側も遂に実業学校を建設しようということに決したのである」
      【5】学校法人中央学院の学校起源の四系列の経緯
       宝閣善教「回顧十年」によれば、最初、創立者たちは(1)「日本橋商業中學」を起こそうと考えていたようである。それが、文部省の行政指導やその背後にある当時の国策(日清戦争後の産業復興)で実業学校設立へと大きく変換した。その実業学校構想で最初に出てきたのは(2)「東京佛敎商業學校」構想であった。
       しかし、寄付金は目標額に達せず、文部省甲種認定商業学校にあたる「東京佛敎商業學校」設立は資金面でとん挫をする。それでも、「日華學堂」での経験を生かした学校設立の熱意は変わらず、梅原融が最初から立派な建物の学校より、小さなところから始める学校の方が良いとの意見を受け、現代で言えば職業専門学校にあたる夜間で就業期限2年の(3)「日本橋簡易商業夜學校」を設立した。
       その2年後には、本格的な文部省甲種認定商業学校である(4)「中央商業学校」18(明治35(1902)年5月5日)が開校された。追記すれば、創立者たちの夢であった「日本橋商業中學」も、遅ればせながら昭和21(1946)年「中央学院中学校」を開校している(昭和43(1968)年休校)。
       しかし、上記の(1)「日本橋商業中學」、(2)「東京佛敎商業學校」、(3)「日本橋簡易商業夜学校」、(4)「中央商業学校」の設立構想は、その前夜にあたる(0)「日華學堂」の学校運営にあったことは既に理事長メッセージで述べている19。すなわち、明治31(1898)年 7月、高楠順次郎は外務省次官・小村寿太郎の依頼と国の補助金を得て、東京本郷西片町に清国・派遣留学生が帝国大学、高等専門学校入学の速成予備科「日華學堂」を設立した。
       この「日華學堂」の学校運営を担ったのは、総監・高楠順次郎(たかくす じゅんじろう)、初代堂監・中島裁之、二代目堂監・宝閣善教、主監・梅原融(うめはら とおる)であった。高楠順次郎は英語、宝閣善教は英文法、梅原融は物理・化学・会話・読解を担当する教師2として、三者は10年ぶりに東京で再会を果たす。これに西本願寺・普通教校の同窓生の桜井義肇(さくらい ぎちょう)が「日華學堂」での地理担当の教師として就任する。
       以上の学校法人中央学院の学校起源の四系列の経緯をまとめると、(0)「日華學堂」⇒(1)「日本橋商業中學」⇒(2)「東京佛敎商業學校」⇒(3)「日本橋簡易商業夜學校」⇒(4)「中央商業學校」となり、創立者たちは(3)「日本橋簡易商業夜學校」設立時も(1)「日本橋商業中學」構想を放棄していない。
      【6】参考①―学校法人中央学院の学校起源説二説
       近年、学校法人中央学院の学校起源の年に関しては、1900年(明治33年)日本橋簡易商業夜学校設立説と1902年(明治35年)中央商業学校設立説があった。ちなみに、1962(昭和37)年学校法人中央学院創立60周年と1982(昭和57)年80周年、そして、2002(平成14)年100周年はともに中央商業学校創立1902(明治35年)年を起点として実施された。また、2020(令和2)年の中央学院大学中央高校120周年事業は、1900(明治33年)年日本橋簡易商業夜学校を起算年として実施されていた。
       このような法人内の混乱を解消するため、2021(令和3)年4月28日学校法人中央学院理事会において、以下の椎名市郎理事長提案が全員一致で可決・承認され、学校法人中央学院の学校起源は1900年(明治33年)日本橋簡易商業夜学校で統一することが決定した。これにより、現在進行中の125周年記念事業は、1900年(明治33年)を学校法人中央学院の学校起源として起算をし、2025(令和7)年とすることが理事会・評議員会で決まっている。
      (1)学校法人中央学院の「学校起源年」は、歴史的事実に基づき日本橋簡易商業夜学校が創立された1900(明治33)年とする。
      (2)「学校起源日」は、1900(明治33)年10月1日(日本橋簡易商業夜学校開設日)とする。
      (3)2017(平成29)年5月31日の理事会報告事項での確認事項「1902(明治35年)を創立年とする」は、本日の決議をもって、これを1900年(明治33年)と正しく修正をする。                                                                                           
      【7】参考②-「教誨一瀾」82号(明治33(1900)年12月11日)記事
       
      ◎日本橋商業夜學校

      十月三日東京日本橋に開きたる商業夜學校は、本派の保護の下に創設したるものにて、佛敎主義の學校なるが、今同校事務監理者梅原融氏の報告を得たれば左に掲ぐ

      九月二十五日家主杉村甚兵衞氏と校主高楠順次郎氏との間に、校舍の件約成り、即日事務員之に移居し別紙廣告井に規則書を區内有力者に配付し、諸般の準備略ば整ひ、十月三日午後六時授業を開始す、當夜入學せし者三十餘名にして爾後濔一ヶ月の今日に於ては、九十六名の就學者を見るに至れり、現今の如くにして進で止まずんば、日ならずして百五十名若くば二百名巳上に達せしむるは敢て難たからずと職員一同奮闘事に従ひつゝあり

      授業は最初第四級のみを開きたりしが就學者の學カに差等あり一週日の後ち別に第三級を開き更に高等英學を學ばんとする者の爲めに英學專修科を開き又た一丁字の素養なき者の爲めに読書習宇の初歩を授ることゝし總じて四個の教塲を開けり教員として佐竹観海、宝閣善教、櫻井義肇、石川辰之助、阪井正旁、木内周五、松葉貞淨、中山了圓、諸氏之に從事し、直接責任者として梅原融氏事務敎務を監理し、校長南岩倉具威、校主高楠順次郎二氏亦た時々來りて學務を赬察す伝々

      明治三十三年十一月六日
      日本橋商業中學及日本橋簡易
      商業夜學校設立廣告
       
      日本橋區少年子弟及各商家に養はるゝ店員を教育せんが爲に今囘區内有力者の賛成を得て商業中學及簡易商業學校を開く

      一  校舎は日本橋蠣殻町三丁目十一番地杉村甚兵衛所有家屋(元有樂館)を以て之に充つ
      一  商業中學は來年四月を以て開き商業夜學校は來る十月一日を以て開く
      一  商業中學に関する詳細の事項は本年成立の時別に廣告すべし
      一  商業夜學校は商家に必要なる知識を授け徳義を進め導ら實用を旨とし完全有爲の實業家を養成するを以て目的とす
      一  學科は初等科に於て簿記、和洋算術、作文、習字、読書、英語を教へ高等科に於て更に商業地理、歴史、商法、経済等を授く
      一  倫理及商業道徳に関し時々講話を開き生徒の徳性を開発する事に務むべし

      一  規則は尤も厳重にし殊に入學者の品行に注意しその昇降時間はその都度店主に報告すべし
      一  夜學授業料は全科を修むるものを毎月金八拾銭とし單に一科目を撰修するものを金貳拾銭とすその他撰科の多少に従ひ増減するものとす
      一  校費として毎月金貳拾銭を納めしむ
      一  毎日授業は午後七時より九時三十分までとし來る十月一日より開始する
      一  二十人已上の店員ありて特に英語の實習を望む商家の爲めには信用ある教師を選び出張教授せしむことあるべし
      一  夜學入學願書は九月二十一日より受付く

      明治三十三年九月 日本橋商業中學及簡易商業夜學校
      設立者
      文學博士 高楠順次郎

      同校長
      マスター、オブ、アーツ
      貴族院議員男爵 南岩倉具威

      同主監
      慶應義塾大學部卒業 梅原 融

      同設立賛助者
      仁杉 英
      藤田藤一郎
      杉村甚兵衛
      柿沼 谷蔵
      (學校規期は之を署す)
      16本資料は、龍谷大学文学部歴史学科仏教史学専攻・教授、本願寺資料研究所委託研究員、中西直樹先生のご提供によるものである(2023(令和5)年3月)。
      17富士登茂太郎編集兼発行人、宝閣善教稿「回顧十年」、『中央商業学校創立満十週年記念号』(中央商業学校々友会発行)所収、明治四十五年五月廿五日、34頁。
      18西本願寺(龍谷山 本願寺)宗門広報誌「教誨一瀾」では、中央商業学校の呼称として「私立中央商業學校」(「教誨一瀾」146号、明治35(1905)年10月5日号)、「東京中央商業學校」(「教誨一瀾」167号、明治36(1905)年5月5日号)等、さまざまに用いられている。学校法人中央学院としては一貫して「中央商業學校」の呼称である。
      19理事長挨拶|中央学院大学 (cgu.ac.jp)
      「東京佛教商業學校」から「日本橋簡易商業夜學校」設立へ
      日本橋簡易商業夜學校開校前夜の物語③
      【1】はじめに
       学校法人中央学院の学校起源である日本橋簡易商業夜学校は、明治33(1900)年10月1日創立、同年10月3日午後6時より開講式を迎えた。この日本橋簡易商業夜学校設立以前に,本法人の学校創立者(前田慧雲、高楠順次郎)たちには、「日本橋商業中學」や「東京佛敎商業學校」構想があった。「東京佛敎商業學校」については、下記のように京都の西本願寺(龍谷山 本願寺)宗門広報誌である「教誨一瀾」76号は、この事実を伝えている。
      【2】「教誨一瀾」76号(明治33(1900)年9月11日)記事
       西本願寺では、明治9(1876)年から本山の中に印刷所を設け、宗門の広報誌である「本山日報」の刊行を開始した。明治30(1897)年には現在の「本願寺新報」前身である「教誨一瀾」(きょうかい いちらん)が創刊された。この「教誨一瀾」76号(明治33(1900)年9月11日)には、本法人の学校起源に関して、次の記事が掲載されている20
      ◎「東京佛敎商業學校」
      本派本山保護の下に、東京に佛敎商業學校の設立を見ることゝなれり、此は司敎前田慧雲、文學博士高楠順次郎諸氏の發起に係るものにて、已に日本橋區蛎殻町杉本五兵衛氏の所有たりし商品陳列館を購求して、其の校舍に充ることゝなし、明年五月に至て完成するの豫定なりと本山よりは直に金五千圓を設備費として下付せられたり (教海一欄76号 明治33年9月11日)                                                                          
       この記事によれば、京都にある西本願寺の保護のもと、東京日本橋に「東京佛敎商業學校」が設立される運びとなった。これは、西本願寺派僧侶である前田慧雲(まえだ えうん-明治33年当時、高輪・仏教高等中学教授、明治35年高輪大学教授、明治36年高輪仏教大学学長を経て明治39年東洋大学学長兼帝国大学講師、大正11年龍谷大学学長)や高楠順次郎(たかくす じゅんじろう-当時、外国語大学学長兼帝国大学教授)の発起によるもので、日本橋の蛎殻町にある杉本五兵衛氏(正しくは、杉村甚兵衛―筆者注記)所有の商品取引所を購入し、「東京佛敎商業學校」の校舎にする計画である。その校舎は明治34年5月に完成予定で、西本願寺から5千円の建設資金を寄贈されたことが記されている21
      【3】「東京佛敎商業學校」構想の時代
       「東京佛敎商業學校」設立構想があったことを知らせる「教誨一瀾」76号の時代は、西本願寺自体の東京進出計画があり、その下で先鋒として、まず西本願寺系列の学校が積極的に東京進出を図った時代であった。
       最初に、明治33年9月に京都から西本願寺法主・大谷光尊宗主の別荘建設用地のある東京高輪に西本願寺学寮「文学寮」の後身である「仏教高等中学」(後の高輪佛教大学)が移転した。これにより、「反省会」も京都から東京へと本拠地を移転した。これは、明治32年に東京巣鴨に東本願寺(真宗大谷派)が真宗大学(大谷大学の前身)を移転することに対する対抗意識であった。
       また、この頃は明治32(1899)年私立学校令が公布され、明治33(1900)年小学校令改正で義務教育4年制が確立され、明治36(1903)年には実業学校令が公布され近代の学校制度が成立した時期とも重なる。
      【4】「東京佛敎商業學校」設立資金
       さて、「東京佛敎商業學校」創立構想と実際の日本橋簡易商業夜学校との関係は今となっては推測の域を出ない。高楠順次郎と前田慧雲は、学校設立資金については財界に知己(ちき)がないため、京都の西本願寺前法主・大谷光尊(おうたに こうそん)宗主への学校設立陳情運動を行った。これを「西下運動」と称した。この西下運動の交渉過程の中で、経済的支援を受けるため、西本願寺の高輪「仏教高等中学」に関連する学校事業の一環として、高楠順次郎と前田慧雲から「東京佛敎商業學校」構想が語られたことは想像がつく。
       明治31(1898)年11月頃前法主・大谷光尊宗主から「文学寮」の東京高輪 移転と高楠順次郎と前田慧雲らが企画している学校設立資金2万円の援助の用意がある旨を告げられた。後段の学校援助資金は、西本願寺の本意ではなく、当時板垣退助のいわゆる「教誨師問題」への高楠順次郎らの厳しい追及への政治的取引として実現したものであった。
        「教誨師問題」とは、板垣退助の自由党と大隈重信の進歩党の「隈板(わいはん)内閣」の下で、内務大臣の板垣退助が巣鴨の監獄の教誨師にキリスト教牧師を全面採用したことに対する高楠順次郎と秦敏之(文学士)らの批判運動を意味する。高楠順次郎と秦敏之(文学士)らは板垣退助が巣鴨監獄の仏教教誨師3名中2名を排除し、キリスト教牧師2名を採用したことに対する「仏敵・板垣退助」と称する痛烈な建白書提出や抗議活動を展開した。
       この背景には、外国人が住む治外法権の築地居留地が解放され、内地雑居といわれる外国人が一般の日本人の住む場所に住み、その外国人の犯罪者に巣鴨監獄も対応する措置であったといわれている23
       この猛烈な抗議に閉口した板垣退助は、前法主・大谷光尊宗主に高楠順次郎らとの和解を依頼し、明治31(1898)年11月頃前法主・大谷光尊宗主からかねてから高楠順次郎と前田慧雲らが企画している学校設立資金2万円の援助用意があることを告げられ、まず5千円の内金支給が約束された24。この約束は「教誨一瀾」76号(明治33(1950)年9月11日)の記事と符合する。ただ、実際の支給は遅れ、「東京佛敎商業學校」設立資金は日本橋の有力商人からの支援に頼りざるを得なかった。
      【5】「東京佛敎商業學校」構想から「日本橋簡易商業夜學校」設立へ
       高楠順次郎と佐竹智應(さたけ かんかい)は、学校教育運営の現場は梅原融(うめはら とおる)に任せて設立資金の獲得に奔走した。まず、日本橋で第一の財を成していた前川総本家の前川太郎兵衛を寄付筆初めとして交渉を開始する。前川太兵衛と柿沼谷蔵(後に市会議員)、そして金港堂の原亮三郎の富裕三氏を中心に賛助活動を展開するが、前川太郎兵衛の80円の寄付の申し出に象徴されるように、寄付金集めは難航した。
       その結果、高楠順次郎は「もう寄附を募ることは止めよう。止めて一文も入らぬでも構わない」との決断をした25。それでも、当初から学校設立への賛助を得ていた日本橋区長・仁杉英、藤田藤一郎、杉村甚兵衛、西彦兵衛、そして、前川総本家の前川太郎兵衛を紹介した養子の前川太兵衛の尽力はあった。それにもかかわらず、寄付金は目標額に達せず(1~2万円程と推測)、文部省甲種認定商業学校にあたる「東京佛敎商業學校」設立は資金面でとん挫をする。
       ここで、学校教育運営の現場責任者である梅原融は、「日華學堂」での教育経験を活かし、最初から立派な建物の学校より、小さなところから始める学校の方が良いと主張をした。高楠順次郎らは梅原融の学校設立と教育への熱意を受けて前川太兵衛の仲介で日本橋の蛎殻町にある杉村甚兵衛所有のかつては穀物商品取引所であり、当時は有楽館という倶楽部の建物を間借りすることとした。
       明治33(1900)年6月16日、高楠順次郎宅に“7人の侍”26が集まり、夜間の学校で就業期限2年の日本橋簡易商業夜学校設立を決議した。明治33(1900)年9月22日同志が協力して数百通の学校案内を郵送、明治33(1900)年10月1日、学校法人中央学院の学校起源である今で言う実業専門学校にあたる日本橋簡易商業夜学校が設立、同年10月3日午後6時、22名の生徒は初授業を迎えた27
       日常、夜間午後7時から9時30分までの実業専門学校にしたのは、日本橋付近の実業家の子弟や昼に働く商店の従業員のためへの便宜もあったし、日本橋簡易商業夜学校では無償に近く生計が立てられない教員に対し、昼は別の学校や職場で働ける経済的配慮があったと思われる。学校設備は、日本橋区長・仁杉英の支援で黒板や机、椅子、そして電灯ではなくランプが用意され授業が開始された28
       この夜学教育の伝統は、明治35(1902)年中央商業学校附属別科夜学専修科から明治41(1908)年中央商業夜学校へ、そして大正15(1926)年中央商業学校夜間部増設、昭和23(1948)年中央高等学校第2部から昭和26(1951)年中央商業短期大学への夜学教育に引き継がれて行った。
       なお、「東京(佛教商業學校)」の名称ではなく「日本橋(簡易商業夜学校)」の名称にこだわったのは、日本橋が東京の中心、日本の中央であるという高楠順次郎の想いや日本橋区長・仁杉英始め多くの日本橋に在住する学校創立協賛者への謝意が「日本橋」の校名に込められていたと思う。

       また、前法主・大谷光尊宗主から資金援助は、その後中央商業学校設立に際して順次支給が実現し、高楠順次郎の記憶では1万5千前後とのことであった。これ以外に東京商業中央学校生徒への補助金として5千円の支給があったようで29、資金援助は合計2万円となる。
       このように学校法人中央学院の学校起源に西本願寺から支援がなければ現在まで続く学校はなかったことになる。法人役員は、令和5(2023)年5月西本願寺で親鸞聖人御誕生850年、立教800年慶讃法要に参列し、仏縁に深謝したことは前記したが、いまだその報恩はできていない。
      【6】日本橋簡易商業夜學校の原型
       龍谷大学文学部歴史学科仏教史学専攻の中西直樹教授によると、日本橋簡易商業夜学校の原型となるモデル校が明治32年京都の反省会の支部である慈善会の夜学校にあったという。
       「明治32年3月、反省会は 『慈善部』を設置して新たな事業に着手しました。 慈善部は、同年4月に最初の事業として『夜学校』を開設しました。文学寮の若手教員や高等科学生が教鞭をとり、英語・数学の二科目を教授しました。 同年11月頃、45名の生徒が在籍しており、年齢は8歳から14歳まで。日中生徒は、京 都市中で、八百屋・米屋・靴屋・車屋・三味線屋・洗濯屋・呉服屋・大工職・道具屋・雨傘屋・ 料理店・染物屋・硫黄屋・張物屋・農業など多様な職業に従事していました。女性の生徒も8名いました。 おそらく、佐竹(観海)や酒生(恵眼)は、日中は文学寮で、夜は夜学校で教鞭をとり、この経験が日本橋簡易商業夜学校の教育でも生かされていったと考えられます30
      【7】「日本橋」(日本橋簡易商業夜學校)と日本橋の商人の想い

      日本橋簡易商業夜学校校舎

      (写真)日本橋簡易商業夜學校設立時の全景(杉村甚兵衛所有のかつては穀物商品取引所で、当時は有楽館というクラブの建物の一階を借用して明治33(1900)年10月1日学校が設立、10月3日より授業が開始された。

       
       さて、「東京佛敎商業學校」構想が日本橋簡易商業夜学校となった経緯は、上記のように正規の普通商業学校設立の資金面のとん挫にあった。現代でいえば実業専門学校の日本橋簡易商業夜学校になった。日本橋に関して言えば、(1)高楠順次郎らは、まず東京に在住の同志の者の声として東京の中心に実業学校が必要である旨を前法主・大谷光尊宗主に上申する。(2)前法主・大谷光尊宗主は「例の商業学校を東京に拵(こしら)えるなら、なるべく日本橋でやったらよかろう」との助言を受ける31。(3)この助言で日本橋での学校設立が決まり、物件探しと前法主・大谷光尊宗主支援金支給遅延にともなう資金獲得に動き出す。それには、以下のような日本橋の経済的事情があった。
       高楠順次郎らを中心に「反省会」32が結成された明治20(1887)年代以降は、欧化全盛の時代でキリスト教が教勢を拡大し、女性信者の獲得にも熱心で東京築地の外国人移住地には次々とキリスト教女学校が設立されていた33。この東京の動きに強い危機感を抱いたのが築地本願寺の僧侶やその有力門徒の日本橋商人であった。この日本橋京橋付近の商人は、近江出身のいわゆる近江商人であり、女性の和装品を扱う問屋が多かった。しかし、キリスト教に象徴される西欧化全盛の時代に女性の洋装品が急速に普及し、これら日本橋の和服商に深刻な影響を与えていた34
       キリスト教ではなく仏教に深く根差した教育をする学校を日本橋に設立する創立者の想いと、当時の日本橋の呉服問屋を中心としたキリスト教普及に対する経済的危機感を有する地元の有力者との融合の中に学校設立があったと思慮される。
       なお、高楠順次郎ら創立者の学校づくりの原点は、「日華學堂」35にあった。このことは法人HP理事長メッセージに掲載中である36。「日華學堂」に参画した高楠順次郎はじめ、梅原融、宝閣善教、桜井義肇(さくらい ぎちょう)らが、「日華學堂」での学校経営を活かし、「日本橋商業中學」と「東京佛敎商業學校」構想を経て、まず暫定的に実業専門学校である「日本橋簡易商業夜學校」(明治33(1900)年10月1日)と2年後に本格的な文部省甲種認定商業学校である「中央商業学校」37(明治35(1902)年5月5日)を設立したことになる。

       いったん、とん挫した「東京佛敎商業學校」構想は、たった2年を経て「中央商業学校」設立へと夢が実現をしていった。このような本法人の学校起源を考察するにあたり思い描けることは、常に資金繰りとの闘いの歴史である。この財政難を先人たちはその都度創意・工夫―をし、乗り越えてきた。その源は、次世代を担う教育への情熱だけであった。教育への情熱というより目の前にいる生徒への愛と信頼であった。

       人徳ある人間をリーダーとして、それを支え生徒の夢をかなえるため現場で粉骨砕身する教職員が過去の学校の教育事業を支えてくれた。この意味で、我々関係者の教育への夢を実現させてくれたのは、この123年間当学校を選択してくれて、ともに歴史を築いてくれた園児・生徒・学生の皆さんである。法人学校起源125周年の主役は、この園児や学徒の方々であることを理事長は決して忘れてはならないと思う。

       (令和5(2023)年10月1日学校法人中央学院 学校起源123年目にあたり
      ―椎名市郎理事長HPメッセージ。同年11月30日一部内容を改訂して再録)
      20本稿の資料は、龍谷大学文学部歴史学科仏教史学専攻・教授、本願寺資料研究所委託研究員、中西直樹先生の提供によるものである(2023(令和5)年3月)。このような資料提供のご縁に対し、関係者一同、中西直樹先生に深謝を申し上げ、本年5月9日龍谷大学・中西直樹先生の研究室を訪問、親しく面談の機会を得て御礼を申し上げ、引き続きのご指導をお願いした(同伴者、入山義裕法人事務室特別相談役・創立125周年史編纂統括)。その後、5月20日に冠地和生・内藤徹雄常務理事も龍谷大学・中西直樹先生研究室を表敬訪問した。
      丁度、訪問時期は西本願寺で親鸞聖人御誕生850年、立教800年慶讃法要が開催されており、上記法人役員が特別法要に参列できたことも中西直樹先生のご縁のお陰である。
      21明治の一円を当時の物価等で現在の価値に換算すると一円は4千円程度という考えがある。これに換算に基づくと約2千万円の寄付となる。ただし、庶民の使用価値は1円が現在の2万円程度という説もあり、一円を2万円で換算すると約1億円の寄付となる(「明治時代の「1円」の価値ってどれぐらい?(1) | お金の歴史雑学コラム | man@bowまなぼう (manabow.com 2023.5.13アクセス))。
      22西本願寺当時前法主・大谷光尊氏の言葉、「高輪に別荘を建てるつもりの土地があるからそれを与える」。中島重義編集発行者『中央商業学校 宝閣先生追悼號』(中央商業学校発行)、昭和15(1940)年12月10日、124頁。
      23中西直樹稿「中央学院の源流-普通教校、反省会、日本橋の近江商人―」令和5(2023)年6月。令和5(2023)年10月17・18日、中央学院大学・中央学院大学中央高
      校での講演レジュメ。
      24中央学院百年史編集委員会、前掲書、32~33頁。
      25中島重義編集発行者、前掲書、125頁。
      26この7名の創立者の内、高楠順次郎・梅原融・宝閣善教・桜井義肇・酒生恵眼は西本願寺普通教校同窓生であり、前田慧雲は西本願寺西山教校出身、佐竹観海は西本願寺大教校出身であった。高楠を除く6名は皆、西本願寺派僧侶であった。この7名は、1899(明治32)年の仏教高等中学や1902(明治35)年開設の西本願寺の高輪・仏教大学にも足跡がある。特に、仏教大学では、酒生恵眼(学長)、佐竹観海(教頭)、高楠順次郎(東洋哲学)、梅原融(文章学)、宝閣善教(英語、法制史)、前田慧雲(仏教通史)、桜井義肇(作文)の7人が揃って教鞭をとっている。また、梅原融、宝閣善教、酒生恵眼、佐竹観海の4名は福井県出身の「越前組」と呼ばれた同郷の同志でもあった。
      27私立学校令(明治32年8月3日)のもとでの「実業学校令」第六条には「私人ハ本令ノ規定ニ依リ実業学校ヲ設置スルコトヲ得」と規定されている。
      <http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/
      detail/1318095.htm>(文部科学省、2018年9月27日アクセス)
      28中央学院百年史編集委員会、前掲書、35頁。
      29西本願寺(龍谷山 本願寺)宗門広報誌「教誨一瀾」189号(明治36(1903)年12月15日)、15頁。
      30中西直樹稿、前掲講演レジュメ、3頁引用。なお、佐竹観海稿「本校創立時代の回想」には日本橋簡易商業夜学校と慈善会の夜学校との関係は記されていない。富士登茂太郎編集兼発行人、前掲書、36頁~39頁。
      31中島重義編集発行者、前掲書、124頁。大谷光尊宗主が創立者たちに日本橋の地に学校設立を助言したことは、当時日本橋が日本の商業の中心地であったこと、築地本願寺があり、その僧侶やその門徒である近江商人が店を開業していたいこと、築地居留地内に次々とキリスト教の女学校が開設され、西本願寺や仏教界にそれに対する危機意識があったことと、等が推量される。中西直樹稿、前掲講演レジュメと講演内容。
      32「反省会」とは、当時の仏教系学校に蔓延していた飲酒や喫煙の風紀の乱れを反省し、徳を積み人間の理想を求め、仏教精神による社会変革を訴える運動を意味する(欒殿武・柴田幹夫編著、『武蔵野大学シリーズ14 日華学堂とその時代―中国人留学生研究の新しい地平―』(武蔵野大学出版会)2022年、160頁)。この背景には、当時、相次いで創設された禁欲的倫理規範を有するキリスト教系の学校に対する仏教徒の危機感があった。反省会は1886(明治19)年結成され、その論集「反省(会)雑誌」は、後の「中央公論」に改名される。
      33東京一致英和学校、東京一致神学院(後の明治学院)、海岸女学院(後の青山学院)、東京中学院(後の関東学院)などである。
      34中西直樹稿、前掲講演レジュメと講演内容。
      35東京佛教商業学校設立構想や日本橋簡易商業夜学校開校前夜の明治31(1898)年 7月、高楠順次郎は外務省次官・小村寿太郎の依頼と国の補助金を得て、東京本郷西片町に清国・派遣留学生が帝国大学、高等専門学校入学の速成予備科「日華學堂」を創設した。
      36理事長挨拶|中央学院大学 (cgu.ac.jp)
      37西本願寺(龍谷山 本願寺)宗門広報誌「教誨一瀾」では、中央商業学校の呼称として「私立中央商業学校」(「教誨一瀾」146号、明治35(1905)年10月5日号)、「東京中央商業学校」(「教誨一瀾」167号、明治36(1905)年5月5日号)等、さまざまに用いられている。学校法人中央学院としては一貫して「中央商業学校」である。
      (参考資料)
      本資料は、龍谷大学文学部歴史学科仏教史学専攻・教授、本願寺資料研究所委託研究員、中西直樹先生のご提供によるものである(2023(令和5)年3月)。

      教海一欄76号 明治33年9月11日
      ◎「東京佛敎商業學校」
      本派本山保護の下に、東京に佛敎商業學校の設立を見ることゝなれり、此は司敎前田慧雲、文學博士高楠順次郎諸氏の發起に係るものにて、已に日本橋區蛎殻町杉本五兵衛氏の所有たりし商品陳列館を購求して、其の校舍に充ることゝなし、明年五月に至て完成するの豫定なりと本山よりは直に金五千圓を設備費として下付せられたり

      教海一欄82号 明治33年12月11日
      ◎日本橋商業夜學校
      十月三日東京日本橋に開きたる商業夜學校は、本派の保護の下に創設したるものにて、佛敎主義の學校なるが、今同校事務監理者梅原融氏の報告を得たれば左に掲ぐ
      九月二十五日家主杉村甚兵衞氏と校主高楠順次郎氏との間に、校舍の件約成り、即日事務員之に移居し別紙廣告井に規則書を區内有力者に配付し、諸般の準備略ば整ひ、十月三日午後六時授業を開始す、當夜入學せし者三十餘名にして爾後濔一ヶ月の今日に於ては、九十六名の就學者を見るに至れり、現今の如くにして進で止まずんば、日ならずして百五十名若くば二百名巳上に達せしむるは敢て難たからずと職員一同奮闘事に従ひつゝあり
      授業は最初第四級のみを開きたりしが就學者の學カに差等あり一週日の後ち別に第三級を開き更に高等英學を學ばんとする者の爲めに英學專修科を開き又た一丁字の素養なき者の爲めに読書習宇の初歩を授ることゝし總じて四個の教塲を開けり教員として佐竹観海、宝閣善教、櫻井義肇、石川辰之助、阪井正旁、木内周五、松葉貞淨、中山了圓、諸氏之に從事し、直接責任者として梅原融氏事務敎務を監理し、校長南岩倉具威、校主高楠順次郎二氏亦た時々來りて學務を赬察す伝々
      明治三十三年十一月六日
      日本橋商業中學及日本橋簡易
      商業夜學校設立廣告
      日本橋區少年子弟及各商家に養はるゝ店員を教育せんが爲に今囘區内有力者の賛成を得て商業中學及簡易商業學校を開く
      一 校舎は日本橋蠣殻町三丁目十一番地杉村甚兵衛所有家屋(元有樂館)を以て之に充つ
      一 商業中學は來年四月を以て開き商業夜學校は來る十月一日を以て開く
      一 商業中學に関する詳細の事項は本年成立の時別に廣告すべし
      一 商業夜學校は商家に必要なる知識を授け德義を進め導ら實用を旨とし完全有爲の實業家を養成するを以て目的とす
      一 學科は初等科に於て簿記、和洋算術、作文、習字、読書、英語を教へ高等科に於て更に商業地理、歴史、商法、経済等を授く
      一 倫理及商業道徳に關し時々講話を開き生徒の徳性を開発する事に務むべし
      一 規則は尤も厳重にし殊に入學者の品行に注意しその昇降時間はその都度店主に報告すべし
      一 夜學授業料は全科を修むるものを毎月金八拾銭とし單に一科目を撰修するものを金貳拾銭とすその他撰科の多少に従ひ増減するものとす
      一 校費として毎月金貳拾銭を納めしむ
      一 毎日授業は午後七時より九時三十分までとし來る十月一日より開始する
      一 二十人已上の店員ありて特に英語の實習を望む商家の爲めには信用ある教師を選び出張教授せしむことあるべし
      一 夜學入學願書は九月二十一日より受付く

      明治三十三年九月 日本橋商業中學及簡易商業夜學校
      設立者
      文學博士 高楠順次郎

      同校長
      マスター、オブ、アーツ
      貴族院議員男爵 南岩倉具威

      同主監
      慶應義塾大學部卒業 梅原 融

      同設立賛助者
      仁杉 英
      藤田藤一郎
      杉村甚兵衛
      柿沼 谷蔵
      (學校規期は之を署す)
      教海一欄146号 明治35年10月5日
      ◎私立中央商業學校の概況
      東京市霊岸島銀町十四番地、私立中央商業學校文部省認可(甲種程度)は、去る明治三十ニ年十月本派東京在留靑年有志者の發起にて前の日本橋區長現同區撰出衆議院議員仁杉英氏及び同區有力者杉村甚兵鵆、柿沼谷藏、原亮三郎、前川太兵衞、小林利兵衛、藤田藤一郎等諸氏の賛助を得て、其當時同區蛎殻町三丁目十一番地を借受け、創立事務所を設け、傍ら商業夜學校を開き晝間勉學の餘暇なき、商家の子弟若くは雇人の敎育に從事するに至れり、爾來一意其成立に奔走せしが、甲種程皮商業學校には文部省に於て頗る嚴密の規定ありて、右敷地にては到底完全なる敎室を新築する能はざるのみならず、規定に應すべき一千坪以上の體操場を得るの見込み之れなきを以て本年ニ月一先づ前記創立事務所を引拂ひ、更に同三月霊岸島銀町元商船學校敷地を借受け、別に同校所有の煉瓦石造三層樓七十五坪の一棟を譲り受け、同校長平山藤次郎氏及び逓信省高等官各有志の厚意に依り、同校敷地内一千十九岼の體操場を無料にて借用するを得て、愈々同四月ニ十三日付文部省達甲第六十六號を以て、文部大臣より甲種商業學校設立の認可あり、貴族院議員男爵南岩倉具威、英國テクスフテルド大學マスターオブアーツ氏を校長に推し、敎員は主として、帝園大學高等商業學校の出身者にして、多年敎育に従事し、親切あり熱心ある人材を聘して之に宛て、去る五月一日取敢へぞ同校所定の豫科一年、二年級の新授業を開始するの運びに至れり、然るに右煉瓦建築物のみにては、多數の學生を收容する能はざるを以て、同七月新に教室に二百十坪の工事を起し本月を限り竣功の約束にて、今や其大半を成就するに至れりと、而して同校規則は左の如し

      私立中央商業學校規則
      第一條 本校ハ商業學校規程甲種程度ニ基キ主トシテ商業ニ従事セント欲スルモノニ對シ内外ノ商務ヲ虔理スルニ必須ナル教育ヲ施スヲ以テ目的トス
      第二條 本校ニ豫科本科ヲ置ク本科ニ於テハ商業ニ関スル學科ヲ授ケ豫科ニ於テハ本科ニ進マンガ為ニ必要ナル普通學科ヲ授ケルモノトス
      第三條 本科修業年限ハ三ケ年トシ豫科修業年限ハ二ケ年トス
      第四條 本校生徒定員ハ本科百五十名豫科百五十名トス
      第五條 學年ハ四月一日ニ始マリ翌年三月三十一日ニ終ル
      第六條 學年ヲ分チテ三學期トス第一學期ハ四月五日ヨリ七月廿日ニ至リ第ニ學期ハ九月一日ヨリ十二月二十四日ニ至リ第三學期ハ一月八日ヨリ三月三十一日ニ至ル
      第七條 毎週授業日數ハ豫科三十時以内本科三十三時以内トス
      第八篠 毎年休業日ヲ定ムルコト左ノ如し
      一 日曜日
      一 祝日
      一 大祭日
      一 夏季休業(七月二十一日ヨリ八月卅一日ニ至ル)
      一 冬季休業(十ニ月二十五日ヨリ一月七日ニ至ル)
      第九條 豫科本科共ニ各一學年ヲ以テ一學級トナス
      第十條 學科ハ本科に於テハ修身、読書、作文、習字、数學、簿記、地理、歴史、商品英語、法律、経済、商事要項、商業實践、體操の十五科ヲ課シ豫科に於テハ修身、國語、作文、習字、算術、地理、歴史、商品、英語、理科、體操ノ十一科ヲ課ス
      第十一條 本科豫科ノ學科課程ハ左ノ如シ
      第十二條 入學ノ期ハ學年ノ始メトス但シ欠員ヲ生ジタル場合ニ限リ第二學期及第三學期ノ始ヨリ十日以内ニ於テ入學ヲ許スコトアルベシ
      第十三條 本校ニ入學セント欲スル者ハ品行方正身體健全モノタルベシ  
      第十四條 年齢十二年以上ニシテ高等小學二年修了ノモノ若クハ之ト同等ノ學力ヲ有スルモノハ豫科第一年級へ入學セシム
      第十五條 年齢十四年以上ニシテ高等小學四年修了ノモノ又ハ之ト同等ノ學力ヲ有スルモノハ試験の上本科第一年級ニ入學セシム
      第十六條 豫科第二級己上ニ入學セントスルモノアルトキハ前各學年の學科程度ニヨリ試験ヲ施ベキモノトス
      第十七條 入學志願者ハ左ノ書式ニヨリ入學願書共ニ履歴書ヲ差出スベシ(書式略之)
      第十八條 入學ノ許可ヲ得タルモノハ左ノ書式ニヨリ保護者ヲ差出スベシ(書式略之)
      第十九條 左ノ各項ノ一二該当スルモノハ退學ヲ命ス
      一、性行不良ニシテ改良ノ見込ナシト認メタル者
      二、學力劣等ニシテ成業ノ見込ナシト認メタル者
      三、引續キ一ヶ年以上欠席シタル者
      四、正當ノ自由ナクシテ引績一ヶ月以上欠席シタル者
      第二十條 保證人ハ丁年以上ニシテ東京市内ニ住居シタル戸主ニシテ一家ヲ立ツルモノニ限ル
      第二十一條 保證人死亡若シクハ市外ニ移聨シタルトキハ直ニ代人ヲ立テ保證書ヲ差換ユベシ
      第二十二條 退學セント欲スルモノハソノ理由ヲ具シ保證人連署ノ願學ヲ差出スベシ
      第二十三條 學年試験ニ於テ引続キ二回落第シタルモノハ除名スベシ
      第二十四條 試験ヲ分チテ學期試験學年試験編入試驗入學試驗ノ四種トス
      第二十五條 學期試験ハ第一學期第二學期ノ末ニ於テ之レヲ施行ス
      第二十六條 學年試験は學年ノ末ニ於テ其學年中ニ履修シタル學料ニ就キ之ヲ施行ス
      第二十七條 豫科入學試驗ハ高等小學一年二年ノ程度ニ依リ各科目ニ就テ施行ス
      第二十八條 本科入學試験ハ本校豫科一年二年ノ程度ニ依リ各科目ニ就テ施行ス 但シ高等小學全科卒業ノ者ハ読書、数學、英語、理科ノ四科目ニ就テ試験ス
      第二十九條 各科目ノ評點ハ百點ヲ以テ最高點トス
      第三十絛 日常各科目中生徒ノ學力ヲ験シ評點ヲ附シタルモノヲ該科ノ日課點トナシ學期試験成績ノ参考ニ資ス
      第三十一絛 各課目學年平均點ハ第一第二學期評點ヲ平均シテ得タルモノニ學年試験點ヲ加ヘテ二除シテ之ヲ定ム
      第三十二條 學年評點ハ各科目總平均點ト該學年中ノ行狀點ヲ参酎シテ之ヲ定ム
      第三十三條 毎試験科目ニ於テ四捨點以上ノ評點ヲ得學年評點ニ於テ六捨點以上ヲ得タルモノヲ進級點トス
      第三十四條 總テ試験ニ欠席シタルモノハ原学級ニ留ムルモノトス但シ病氣又ハ正當ノ事由ニ依リ校長ノ認可ヲ得テ欠席シタルモノハ期日ヲ定メテ追試験ヲナスコトアルベシ
      第三十五條 第三學年學年試験評點ニ於テ合格ノ點数ヲ得タルモノヲ卒業者トス
      第三十六條 第三學年學年試験合格者並本科第一年以後毎年ノ評點ヲ通算シ各課目六十點以上總課目平均九十點以上ヲ得タルモノハ特ニ優等卒業者トス但シ行狀點ニ於テ一旦貧點ヲ得タルモノハ本條ノ限リニアラズ
      第三十七條 學年試験ニ及第セザルモノハ原級ニ留メ次學年ノ始メヨリ其級ノ全科ヲ再修セシム
      第三十八條 本科ヲ卒業シタル者ニハ證書ヲ授與ス
      第三十九條 卒業生中學業品行共ニ優等ノモノニ對シテハ特ニ優等卒業證書ヲ授與ス
      第四十條 學費ハ束修金壱圓授業料金貳圓トス但八月ハ之ヲ徴収セズ
      第四十一條 授業料ハ毎月十日以前ニ於テ之ヲ納付スベシ
      第四十二條 既納ノ束修及ビ授業料ハ一切之ヲ返附セザルモノトス
      第四十三條 在學生徒ハ出席ノ有無ニ拘ハラズ授業料ヲ納付スベキモノトス
      第四十四條 授業料怠納者アルトキハ之ヲ保證人ニ通知シ保證人通知ヲ受ケタル日ヨリ二週間以内ニ納付セザルトキハ其生徒ノ停學ヲ命スベシ
      第四十五條 凡ソ命令規則ニ違背スルモノハ之ヲ罰ス
      第四十六條 罰則ハ戒論停學退學ノ三トス
      第四十七條 建物若クハ器具等ヲ破損スルモノアルトキハ之ヲ賠償セシメ又ハ情狀ニヨリ處分スルコトアルベシ (参考資料以上)
      2023(令和5)年10月1日 理事長メッセージ(10月1日法人学校起源123年目に寄せて)

      「日本橋簡易商業夜學校」開校前夜の物語①②③

       学校法人中央学院の学校起源前夜の経緯は、(0)「日華學堂」から始まり⇒(1)「日本橋商業中學」構想⇒(2)「東京佛敎商業學校」構想⇒そして(3)「日本橋簡易商業夜學校」設立⇒(4)「中央商業學校」設立へと続く。創立者は、学校設立構想の中心にあった(1)「日本橋商業中學」を(3)「日本橋簡易商業夜學校」設立時でも放棄をしていない。125周年記念事業周年史編纂にあたり、理事長として学校起源前夜の系譜を整理し、令和5年10月17日・18日龍谷大学・中西直樹教授の125周年記念講演補足資料として提供するものである。

                              第11代理事長 椎名市郎

      学校法人中央学院学校起源の夜明け前「日華学堂」について
            日本橋簡易商業夜學校開校前夜の物語①
      【1】学校法人武蔵野大学と学校法人中央学院
      令和4(2022)年7月19日、本法人同様、高楠順次郎を学祖として敬う「学校法人 武蔵野大学」の石上和敬副学長先生、三上嘉賢総務部長がご来校された。その趣旨は、武蔵野大学100周年記念事業を契機に、同じ高楠順次郎を学祖(創始者)とした二つの大学間の交流であった。
       その後、石上副学長先生より、訪問礼状と欒殿武(らん ひろたけ)・柴田幹夫編著『武蔵野大学シリーズ14  日華学堂とその時代―中国人留学生研究の新しい地平―』(武蔵野大学出版会)のご恵贈を受けた(以降、玉書と称す)。この玉書は、当職に新たな角度で本法人学校起源の夜明け前の歴史を学び直す機会を与えてくれた。
      【2】「日華學堂」(明治31(1898)年)と日本橋簡易商業夜學校(明治33(1900)年) 
       結論から言えば、高楠順次郎(たかくす じゅんじろう)の学校づくりの原点がこの「日華学堂」にあり、ここに参画した高楠順次郎はじめ、梅原融(うめはら とおる)、宝閣善教(ほうかく ぜんきょう)、桜井義肇(さくらい ぎちょう)らが、「日華學堂」での学校経営を活かし、「日本橋商業中學」構想や「東京佛教商業學校」構想を経て、「日本橋簡易商業夜學校」(明治33(1900)年)と「中央商業学校」(明治35(1902)年)を設立したことにある。
       学校法人中央学院学校起源の原点であるこの「日華學堂」は、125年に及ぶ本法人の歴史に足跡は残すものの1これまで十分な歴史の検証とその継承がなされてこなかった。玉書によれば、日本橋簡易商業夜學校開校前夜の明治31(1898)年 7月、高楠順次郎は外務省次官・小村寿太郎の依頼と補助金を得て、東京本郷西片町に清国・派遣留学生の帝国大学、高等専門学校入学の速成予備科「日華學堂」を創設した。
      【3】「日華學堂」の歴史と学校法人中央学院 
       この玉書では、清国の留学生速成予備校であった「日華學堂」の凝縮された2年2ケ月(明治31(1898)年7月から明治33年(1900)年9月)の歩みがその歴史的背景や教育内容・学堂運営・留学生生活、そして、卒業生の多方面にわたる活躍が記されている。宝閣善教の「日華學堂日誌」の資料を掘り起こし、他の文献を丹念に渉猟・分析し、現代に通じる留学生教育の足跡を論じた労作である。
       「日華學堂」の学校運営を担ったのは、総監・高楠順次郎、初代堂監・中島裁之、二代目堂監・宝閣善教、主監・梅原融らであった。高楠順次郎は英語、宝閣善教は英文法、梅原融は物理・化学・会話・読解を担当する教師2として、三者は10年ぶりに東京で再会を果たす。これに同窓の桜井義肇が「日華學堂」での地理担当の教師として就任する。
      【4】反省会と建学の精神の萌芽 
       高楠順次郎の「日華學堂」運営に協力をしたのは、修養団体「反省会」運動 の同志で西本願寺普通教校(後の文学寮)同窓生で僧籍を有していた者が中心であった。禁酒を謳うこの「反省会」は、京都で新島襄が創設したプロテスタント系の同志社を意識したものであった。同志社では、禁酒の禁欲的な規範を保ち、プロテスタンティズムの誠実、勤勉な徳の倫理を重視する学風であった。
       それに対し、当時の日本の学校に蔓延していた飲酒の風紀の乱れであった。これを若き仏教学徒が教育の危機として改革を求める運動が「反省会」であった。特に、学校の風紀の乱れ以外でも商業(商売)の世界は、政治と結びついた政商が主流で、士農工商の最下層「商」の通り、商業活動は倫理の外に置かれていた。ここに、仏教倫理の復興を願う創立者たちが仏教倫理や時には伝統的な武士道の精神の人材復活を願い、日本橋簡易商業夜学校設立への機運の高まりに通じる。その源流から派生した精神が現代の大学の建学の精神「公正な社会観と倫理観の涵養」へと通じる。
      【5】学校法人中央学院の学校起源創立者“7人の侍” 
       玉書、第三章において柴田幹夫博士が、本学の創始者でもある高楠順次郎(日本橋簡易商業夜学校校主)はじめ、梅原融(同校主監・西本願寺派布教師)、宝閣善教(中央商業高等学校第二代校長・西本願寺派僧侶)の活躍を詳しく論述している。高楠順次郎・梅原融・宝閣善教は、いずれも西本願寺普通教校(後の文学寮)の同窓生であった。
       仏教的信仰によって培われた信念と商業理論と実技とを体得した立派な商士を育成する境域機関の設立に共鳴した高楠順次郎、宝閣善教、梅原融、桜井義肇のいわゆる学校起源発起人“7人の侍”の内、4名が「日華學堂」に集ったことは玉書の歴史的資料で確認できた。
       残る西本願寺普通教校(文学寮―現在の龍谷大学)の同窓の文学博士・前田慧雲(まえだ えうん)、佐竹観海(さたけ かんかい)、酒生恵眼(さこう えげん)は、「日華學堂」との関連は不明である。創立者の一人・酒生恵眼は、「日華學堂」より「反省会」の「反省(会)雑誌」の編集に参画した同志 であった。
       1900(明治33)年6月16日、高楠順次郎宅にこの“7人の侍”が集まり、日本橋簡易商業夜學校設立を決議した。この7名の創立者の結びつきは、西本願寺普通教校(文学寮)同窓生以外にも、1902(明治35)年開設の西本願寺の高輪・仏教大学にも足跡がある。
       仏教大学では、酒生恵眼(学長)、佐竹観海(教頭)、高楠順次郎(東洋哲学)、梅原融(文章学)、宝閣善教(英語、法制史)、前田慧雲(仏教通史)、桜井義肇(作文)の7人が揃って教鞭をとっている 。また、梅原融、宝閣善教、酒生恵眼、佐竹観海の4名は福井県出身の同郷の同志でもあった。
      【6】125年の歴史から学ぶ回顧と展望
       我々がこのような中央学院の歴史的事実を考察する際は、125年の回顧や歴史の重みに対する先人への畏敬以外に、激動している現在の法人の状況に解を求める有機的因果関係を探ることにある 。まさに、「古人の跡を求めず、古人の求めるところを求める」 である。
       その意味で、我々が歴史的事実から学ぶことは、いつの時代も教育の創造・発展は、まず共鳴を抱くリーダーの下に同志が集まり、その同志が役割分担をしあって形成してきたことにある。理想を掲げる組織を象徴する人物、その人物の理想を実現するために共鳴して奔走する仲間、そして、理想と現実の谷間で教育実践する熱意ある現場実践教育者という構造となる。
       翻って現在、理事長、学長、校長は、理想を掲げ人徳を得て同志を募っているか。副学長、学部長、教頭は理想実現のために役割分担して教育に奔走をしているか。教育現場に立ち全身全霊で教育に携わる教員は、高楠順次郎の総合的人間力の基本である建学の精神を学生・生徒の手本として遂行しているか。他人を批判するだけの能力にのみ長けて、己を厳しき見つめ研鑽を積むことを忘れてはいないか。“立ち向かう人の姿は我が身なり”の謙虚さを忘れてはいないか。これらの問いかけは、先人が混迷する現代を生き抜くために我々に常に問う自戒への歴史の魂の叫びともいえる。まさに、「古人の跡を求めず、古人の求めるところを求める」ことなのである。
      【7】再び、建学の精神再考
       高楠順次郎の言葉(伝承-出典不明)として現中央学院大学中央高校の歴代校長が引き継いできた言葉(学校法人中央学院、中央学院大学中央高校、中央学院高校の建学の精神)は以下のようである8

         「誠実に謙虚に生きよ
            温かい心で人に接し
              奉仕と感謝の心を忘れるな
                常に身を慎み
                  反省と研鑽を忘れるな」


       これは、学生・生徒ではなくその模範を示す教職員へのメッセージとして受け取るべきと考える。高楠順次郎の言葉ーいわく、「(学校に)修身(道徳)の科目は必要としない。教師がみな修身の教師だからである」が伝わっている9。この建学精神の中心は、冒頭の「誠実」にある。中央商業高等学校では玄関に校是として「誠実」の額(卒業生・松丸長三郎筆)が掲げられていた10
      この高楠順次郎の建学の精神が、大学創生期の第二代、四代、六代学長石本三郎の下での以下の中央学院大学の建学の精神へと繋がる。
           「公正な社会観と倫理観の涵養」
       なお、中央学院大学設立趣意書の建学の精神は、中央学院大学学則第1条に明記されている「産学協同」であった(当時、証券会社からの3億8千万円の出資を得ての証券大学構想は、昭和39年後半から40年にかけての証券不況大パニックでとん挫をする)。
       また、「公正な社会観と倫理観の涵養」以前の初代学長・湯村栄一の開学時の訓示の言葉は、現在も本館1階正面入り口に掲げられている苗剣秋11の「宿命に生れ、運命に挑み、使命に燃ゆ」であった。


       ここに末文で失礼ながら、隆盛をほこる学校法人 武蔵野大学の2024年創立100周年(1924年-2024年)に対し、当法人挙げて衷心より祝意を表したい。また、3年後の2025(令和7)年10月1日、当法人も苦節125年目の祝いの秋を迎える。

      HPバナー学校法人中央学院創立125周年記念事業ロゴ

       2023(令和5年)10月1日
       学校法人中央学院学校起源日
      (日本橋簡易商業夜学校開校記念日)
      (椎名市郎理事長 HP メッセージを一部加筆修正再録)

      日本橋簡易商業夜学校校舎

      1900(明治33)年10月1日創立
      日本橋簡易商業夜学校校舎

      初代校舎「三層楼」

      1902(明治35)年5月5日創立
      中央商業学校校舎

        1中央学院八十年史刊行部会編『中央学院八十年史』(中央公論事業出版)、昭和57年、54頁~55頁。中央学院百年史編集委員会編『中央学院100年史』(学校法人中央学院)、平成14年、30頁~31頁。
        2欒殿武・柴田幹夫編著、『武蔵野大学シリーズ14 日華学堂とその時代―中国人留学生研究の新しい地平―』(武蔵野大学出版会)2022年、180頁。
        3「反省会」とは、当時の学校に蔓延していた飲酒や喫煙の風紀の乱れを反省し、徳を積み人間の理想を求め、仏教精神による社会変革を訴える運動を意味する(欒殿武・柴田幹夫編著、同上書、160頁)。この背景には、当時、相次いで創設されたキリスト教系の規律あふれる学校への危機感があった。反省会は1886(明治19)年結成され、その論集「反省(会)雑誌」は、後の「中央公論」に改称される。
        4学校起源発起人“7人の侍”は、すべて「日華學堂」に集ったとの記述がある(中央学院百年史編集委員会編、前掲書、31頁)。しかし、前田慧雲、佐竹観海、酒生恵眼の3名と「日華學堂」との関係は玉書でも不明である。
        5中央学院八十年史刊行部会編、前掲書、68~69頁。
        6E.H.カー著、近藤和彦訳『歴史とは何か』(岩波書店)、2022年、29頁。
        7中央学院六十年史編纂委員会編『中央学院六十年史』(中央公論事業出版)、昭和38年、494頁。
        8高楠順次郎の言葉は、菩薩の心に通じる。
      「他に慈しみを与え 自ら行を律し 忍耐強く努力し 知恵を磨くのが 菩薩であり 幸福をつかむ」(奈良 薬師寺・金堂教示 昭和41(1966)年9月)
        9武蔵野大学学祖高楠順次郎研究会編『高楠順次郎の教育理念』(学校法人武蔵野女子学院)、平成17年、112頁。文中のカギかっこ部分は椎名が挿入。
        10中央学院六十年史編纂委員会編、前掲書、「Ⅱ 現代・展望篇」冒頭の写真、125~127頁、187頁。
        11苗剣秋(みょう けんしゅうー日本語表記)は、張学良と学友であり、西安事件の立役者といわれ、周恩来とも懇意であった。共産主義と日中の特性に関する批判的評論で有名。日本留学中、一高卒・東大文学部(中退)、高等文官試験に合格している。
      「日本橋商業中學」構想から「東京佛教商業學校」構想へ
            日本橋簡易商業夜學校開校前夜の物語②
      【1】    はじめに
       明治33(1900)年10月1日、学校法人中央学院の学校起源である日本橋簡易商業夜學校が設立、同年10月3日午後6時より22名の生徒を迎えて授業が開始された。京都の西本願寺(龍谷山 本願寺)宗門広報誌である「教誨一瀾」82号(明治33年12月11日)には、日本橋簡易商業夜學校設立と同時に「日本橋商業中學」の設立計画が紹介されている。この事実を123年に及ぶ法人の学校の歴史に加えるために、現在進行中の法人学校創立125周年史編纂の資料としてここに一文を認めることとした。

      【2】「教誨一瀾」82号(明治33(1950)年12月11日)記事
       西本願寺では、明治9(1876)年から本山の中に印刷所を設け、宗門の広報誌である「本山日報」の刊行を開始した。明治30(1947)年には現在の「本願寺新報」前身である「教誨一瀾」(きょうかい いちらん)が創刊された。この「教誨一瀾」82号(明治33(1900)年12月11日)には、本法人の学校起源に関して、下記の記事が掲載されている 。

      【3】「日本橋商業中學」設立構想
       創立者たちは、明治33年10月1日日本橋簡易商業夜学校の設立前から、「日本橋商業中學」を開学することを決め文部省との交渉に入っていた。そして、文部省より明治33年中に「日本橋商業中學」が認可されれば、「日本橋商業中學」の具体的な教育内容や募集要項は明治33年中に広告する計画であった。その旨を伝える「教誨一瀾」82号の「日本橋商業中學」を紹介すれば以下のようである(下罫線は、筆者記入)。

       明治三十三年十一月六日
       日本橋商業中學及日本橋簡易商業夜學校設立廣告
       日本橋區少年子弟及各商家に養はるゝ店員を教育せんが爲に今囘區内有力者の賛成を得て商業中學及簡易商業學校を開く
      一 校舎は日木橋蠣殻町三丁目十一番地杉村甚兵衛所有家屋(元有樂館)を以て之に充つ
      商業中學は來年四月を以て開き商業夜學校は來る十月一日を以て開く
      商業中學に関する詳細の事項は本年成立の時別に廣告すべし
      【4】「日本橋商業中學」設立構想の頓挫の事由
       日本橋商業中學校の設立中止の経緯は、中央商業学校創立満十週年記念号「回顧十年」で、宝閣善教(ほうかく ぜんきょう)が以下のように述べている 。結論から言えば、「日本橋商業中學」設立構想の頓挫の事由は、認可する文部省の行政指導やその背後にある当時の国策(日清戦争後の産業復興)にあったことがわかる。

      「最初は中学校を起こそうという考えで、小石川で千坪余の土地を三井家から借りて置いたのであるが、文部省の当事者などとも種々相談して見た結果、当時局長であった澤柳氏等は中学校も必要であるが、日清戦役後実業界の勃興に連れて実業教育の期間が特に今日の時勢には必要であるという意見で、発起者側も遂に実業学校を建設しようということに決したのである」

      【5】学校法人中央学院の学校起源の四系列の経緯
       宝閣善教「回顧十年」によれば、最初、創立者たちは(1)「日本橋商業中學」を起こそうと考えていたようである。それが、文部省の行政指導やその背後にある当時の国策(日清戦争後の産業復興)で実業学校設立へと大きく変換した。その実業学校構想で最初に出てきたのは(2)「東京佛敎商業學校」構想であった。
      しかし、寄付金は目標額に達せず、文部省甲種認定商業学校にあたる「東京佛敎商業學校」設立は資金面でとん挫をする。それでも、「日華學堂」での経験を生かした学校設立の熱意は変わらず、梅原融が最初から立派な建物の学校より、小さなところから始める学校の方が良いとの意見を受け、現代で言えば職業専門学校にあたる夜間で就業期限2年の(3)「日本橋簡易商業夜學校」を設立した。
       その2年後には、本格的な文部省甲種認定商業学校である(4)「中央商業学校」 (明治35(1902)年5月5日)が開校された。追記すれば、創立者たちの夢であった「日本橋商業中學」も、遅ればせながら昭和21(1946)年「中央学院中学校」を開校している(昭和43(1968)年休校)。
      しかし、上記の(1)「日本橋商業中學」、(2)「東京佛敎商業學校」、(3)「日本橋簡易商業夜學校」、(4)「中央商業学校」の設立構想は、その前夜にあたる(0)「日華學堂」の学校運営にあったことは既に理事長メッセージで述べている 。すなわち、明治31(1898)年 7月、高楠順次郎は外務省次官・小村寿太郎の依頼と国の補助金を得て、東京本郷西片町に清国・派遣留学生が帝国大学、高等専門学校入学の速成予備科「日華學堂」を設立した。
       この「日華學堂」の学校運営を担ったのは、総監・高楠順次郎(たかくす じゅんじろう)、初代堂監・中島裁之、二代目堂監・宝閣善教、主監・梅原融(うめはら とおる)であった。高楠順次郎は英語、宝閣善教は英文法、梅原融は物理・化学・会話・読解を担当する教師2として、三者は10年ぶりに東京で再会を果たす。これに西本願寺・普通教校の同窓生の桜井義肇(さくらい ぎちょう)が「日華學堂」での地理担当の教師として就任する。この「日華學堂」にいわゆる創立者“7人の侍”の4名が揃うことになる。
       以上の学校法人中央学院の学校起源の四系列の経緯をまとめると、(0)「日華學堂」⇒(1)「日本橋商業中學」⇒(2)「東京佛敎商業學校」⇒(3)「日本橋簡易商業夜學校」⇒(4)「中央商業學校」となり、創立者たちは(3)「日本橋簡易商業夜學校」設立時も(1)「日本橋商業中學」構想を放棄していない。
      12本資料は、龍谷大学文学部歴史学科仏教史学専攻・教授、本願寺資料研究所委託研究員、中西直樹先生のご提供によるものである(2023(令和5)年3月)。
      13富士登茂太郎編集兼発行人、宝閣善教稿「回顧十年」、『中央商業学校創立満十週年記念号』(中央商業学校々友会発行)所収、明治四十五年五月廿五日、34頁。
      14西本願寺(龍谷山 本願寺)宗門広報誌「教誨一瀾」では、中央商業学校の呼称として「私立中央商業學校」(「教誨一瀾」146号、明治35(1905)年10月5日号)、「東京中央商業學校」(「教誨一瀾」167号、明治36(1905)年5月5日号)等、さまざまに用いられている。学校法人中央学院としては一貫して「中央商業學校」の呼称である。
      15理事長挨拶|中央学院大学 (cgu.ac.jp)
      【6】参考①―学校法人中央学院の学校起源説二説
       近年、学校法人中央学院の学校起源の年に関しては、1900年(明治33年)日本橋簡易商業夜学校設立説と1902年(明治35年)中央商業学校設立説があった。ちなみに、1962(昭和37)年学校法人中央学院創立60周年と1982(昭和57)年80周年、そして、2002(平成14)年100周年はともに中央商業学校創立1902(明治35年)年を起点として実施された。また、2020(令和2)年の中央学院大学中央高校120周年事業は、1900(明治33年)年日本橋簡易商業夜学校を起算年として実施されていた。
       このような法人内の混乱を解消するため、2021(令和3)年4月28日学校法人中央学院理事会において、以下の椎名市郎理事長提案が全員一致で可決・承認され、学校法人中央学院の学校起源は1900年(明治33年)日本橋簡易商業夜学校で統一することが決定した。これにより、現在進行中の125周年記念事業は、1900年(明治33年)を学校法人中央学院の学校起源として起算をし、2025(令和7)年とすることが理事会・評議員会で決まっている。

       
      (1)学校法人中央学院の「学校起源年」は、歴史的事実に基づき日本橋簡易商業夜学校が創立された1900(明治33)年とする。(2)「学校起源日」は、1900(明治33)年10月1日(日本橋簡易商業夜学校開設日)とする。(3)2017(平成29)年5月31日の理事会報告事項での確認事項「1902(明治35年)を創立年とする」は、本日の決議をもって、これを1900年(明治33年)と正しく修正をする。
      【7】参考②―「教誨一瀾」82号(明治33(1900)年12月11日)記事
       
      ◎日本橋商業夜學校

      十月三日東京日本橋に開きたる商業夜學校は、本派の保護の下に創設したるものにて、佛敎主義の學校なるが、今同校事務監理者梅原融氏の報告を得たれば左に掲ぐ

      九月二十五日家主杉村甚兵衞氏と校主高楠順次郎氏との間に、校舍の件約成り、即日事務員之に移居し別紙廣告井に規則書を區内有力者に配付し、諸般の準備略ば整ひ、十月三日午後六時授業を開始す、當夜入學せし者三十餘名にして爾後濔一ヶ月の今日に於ては、九十六名の就學者を見るに至れり、現今の如くにして進で止まずんば、日ならずして百五十名若くば二百名巳上に達せしむるは敢て難たからずと職員一同奮闘事に従ひつゝあり

      授業は最初第四級のみを開きたりしが就學者の學カに差等あり一週日の後ち別に第三級を開き更に高等英學を學ばんとする者の爲めに英學專修科を開き又た一丁字の素養なき者の爲めに読書習宇の初歩を授ることゝし總じて四個の教塲を開けり教員として佐竹観海、宝閣善教、櫻井義肇、石川辰之助、阪井正旁、木内周五、松葉貞淨、中山了圓、諸氏之に從事し、直接責任者として梅原融氏事務敎務を監理し、校長南岩倉具威、校主高楠順次郎二氏亦た時々來りて學務を赬察す伝々

      明治三十三年十一月六日
      日本橋商業中學及日本橋簡易
      商業夜學校設立廣告
       
      日本橋區少年子弟及各商家に養はるゝ店員を教育せんが爲に今囘區内有力者の賛成を得て商業中學及簡易商業學校を開く

      一  校舎は日本橋蠣殻町三丁目十一番地杉村甚兵衛所有家屋(元有樂館)を以て之に充つ
      一  商業中學は來年四月を以て開き商業夜學校は來る十月一日を以て開く
      一  商業中學に関する詳細の事項は本年成立の時別に廣告すべし
      一  商業夜學校は商家に必要なる知識を授け徳義を進め導ら實用を旨とし完全有爲の實業家を養成するを以て目的とす
      一  學科は初等科に於て簿記、和洋算術、作文、習字、読書、英語を教へ高等科に於て更に商業地理、歴史、商法、経済等を授く
      一  倫理及商業道徳に関し時々講話を開き生徒の徳性を開発する事に務むべし

      一  規則は尤も厳重にし殊に入學者の品行に注意しその昇降時間はその都度店主に報告すべし
      一  夜學授業料は全科を修むるものを毎月金八拾銭とし單に一科目を撰修するものを金貳拾銭とすその他撰科の多少に従ひ増減するものとす
      一  校費として毎月金貳拾銭を納めしむ
      一  毎日授業は午後七時より九時三十分までとし來る十月一日より開始する
      一  二十人已上の店員ありて特に英語の實習を望む商家の爲めには信用ある教師を選び出張教授せしむことあるべし
      一  夜學入學願書は九月二十一日より受付く

      明治三十三年九月 日本橋商業中學及簡易商業夜學校
      設立者
      文學博士 高楠順次郎

      同校長
      マスター、オブ、アーツ
      貴族院議員男爵 南岩倉具威

      同主監
      慶應義塾大學部卒業 梅原 融

      同設立賛助者
      仁杉 英
      藤田藤一郎
      杉村甚兵衛
      柿沼 谷蔵
      (學校規期は之を署す)
      「東京佛教商業學校」から「日本橋簡易商業夜學校」設立へ
            日本橋簡易商業夜學校開校前夜の物語③
      【1】はじめに
       学校法人中央学院の学校起源である日本橋簡易商業夜學校は、明治33(1900)年10月1日創立、同年10月3日午後6時より開講式を迎えた。この日本橋簡易商業夜學校設立以前に,本法人の学校創立者(前田慧雲、高楠順次郎)たちには、「日本橋商業中學」や「東京佛敎商業學校」構想があった。「東京佛敎商業學校」については、下記のように京都の西本願寺(龍谷山 本願寺)宗門広報誌である「教誨一瀾」76号は、この事実を伝えている。

      【2】「教誨一瀾」76号(明治33(1900)年9月11日)記事
       西本願寺では、明治9(1876)年から本山の中に印刷所を設け、宗門の広報誌である「本山日報」の刊行を開始した。明治30(1897)年には現在の「本願寺新報」前身である「教誨一瀾」(きょうかいいちらん)が創刊された。この「教誨一瀾」76号(明治33(1900)年9月11日)には、本法人の学校起源に関して、次の記事が掲載されている 。
      ◎「東京佛敎商業學校」
      本派本山保護の下に、東京に佛敎商業學校の設立を見ることゝなれり、此は司敎前田慧雲、文學博士高楠順次郎諸氏の發起に係るものにて、已に日本橋區蛎殻町杉本五兵衛氏の所有たりし商品陳列館を購求して、其の校舍に充ることゝなし、明年五月に至て完成するの豫定なりと本山よりは直に金五千圓を設備費として下付せられたり (教海一欄76号 明治33年9月11日)
       この記事によれば、京都にある西本願寺の保護のもと、東京日本橋に「東京佛敎商業學校」が設立される運びとなった。これは、西本願寺派僧侶である前田慧雲(まえだ えうん-明治33年当時、高輪・仏教高等中学教授、明治35年高輪大学教授、明治36年高輪仏教大学学長を経て明治39年東洋大学学長兼帝国大学講師、大正11年龍谷大学学長)や高楠順次郎(たかくす じゅんじろう-当時、外国語大学学長兼帝国大学教授)の発起によるもので、日本橋の蛎殻町にある杉本五兵衛氏(正しくは、杉村甚兵衛―筆者注記)所有の商品取引所を購入し、「東京佛敎商業學校」の校舎にする計画である。その校舎は明治34年5月に完成予定で、西本願寺から5千円の建設資金を寄贈されたことが記されている 。

      【3】「東京佛敎商業學校」構想の時代
       「東京佛敎商業學校」設立構想があったことを知らせる「教誨一瀾」76号の時代は、西本願寺自体の東京進出計画があり、その下で先鋒として、まず西本願寺系列の学校が積極的に東京進出を図った時代であった。
      最初に、明治33年9月に京都から西本願寺法主・大谷光尊上人の別荘建設用地のある東京高輪に西本願寺学寮「文学寮」の後身である「仏教高等中学」(後の高輪佛教大学)が移転した。これにより、「反省会」も京都から東京へと本拠地を移転した。これは、明治32年に東京巣鴨に東本願寺(真宗大谷派)が真宗大学(大谷大学の前身)を移転することに対する対抗意識であった。
       また、この頃は明治32(1899)年私立学校令が公布され、明治33(1900)年小学校令改正で義務教育4年制が確立され、明治36(1903)年には実業学校令が公布され近代の学校制度が成立した時期とも重なる。

      【4】「東京佛敎商業學校」設立資金
       さて、「東京佛敎商業學校」創立構想と実際の日本橋簡易商業夜学校との関係は今となっては推測の域を出ない。高楠順次郎と前田慧雲は、学校設立資金については財界に知己(ちき)がないため、京都の西本願寺前法主・大谷光尊(おうたに こうそん)上人への学校設立陳情運動を行った。これを「西下運動」と称した。この西下運動の交渉過程の中で、経済的支援を受けるため、西本願寺の高輪「仏教高等中学」に関連する学校事業の一環として、高楠順次郎と前田慧雲から「東京佛敎商業學校」構想が語られたことは想像がつく。
       明治31(1898)年11月頃前法主・大谷光尊上人から「文学寮」の東京高輪 移転と高楠順次郎と前田慧雲らが企画している学校設立資金2万円の援助の用意がある旨を告げられた。後段の学校援助資金は、西本願寺の本意ではなく、当時板垣退助のいわゆる「教誨師問題」への高楠順次郎らの厳しい追及への政治的取引として実現したものであった。
       「教誨師問題」とは、板垣退助の自由党と大隈重信の進歩党の「隈板(わいはん)内閣」の下で、内務大臣の板垣退助が巣鴨の監獄の教誨師にキリスト教牧師を全面採用したことに対する高楠順次郎と秦敏之(文学士)らの批判運動を意味する。高楠順次郎と秦敏之(文学士)らは板垣退助が監獄の仏教教誨師を排除し、キリスト教牧師を全面採用したことに対する「仏敵・板垣退助」と称する痛烈な建白書提出や抗議活動を展開した。
       この猛烈な抗議に閉口した板垣退助は、前法主・大谷光尊上人に高楠順次郎らとの和解を依頼し、明治31(1898)年11月頃前法主・大谷光尊上人からかねてから高楠順次郎と前田慧雲らが企画している学校設立資金2万円の援助用意があることを告げられ、まず5千円の内金支給が約束された 。この約束は「教誨一瀾」76号(明治33(1950)年9月11日)の記事と符合する。ただ、実際の支給は遅れ、「東京佛敎商業學校」設立資金は日本橋の有力商人からの支援に頼りざるを得なくなった。

      【5】「東京佛敎商業學校」構想から「日本橋簡易商業夜學校」設立へ
       高楠順次郎と佐竹智應(さたけ かんかい)は、学校教育運営の現場は梅原融(うめはら とおる)に任せて設立資金の獲得に奔走した。まず、日本橋で第一の財を成していた前川総本家の前川太郎兵衛を寄付筆初めとして交渉を開始する。前川太兵衛と柿沼谷蔵(後に市会議員)、そして金港堂の原亮三郎の富裕三氏を中心に賛助活動を展開するが、前川太郎兵衛の80円の寄付の申し出に象徴されるように、寄付金集めは難航した。
       その結果、高楠順次郎は「もう寄附を募ることは止めよう。止めて一文も入らぬでも構わない」との決断をした 。それでも、当初から学校設立への賛助を得ていた日本橋区長・仁杉英、藤田藤一郎、杉村甚兵衛、西彦兵衛、そして、前川総本家の前川太郎兵衛を紹介した養子の前川太兵衛の尽力はあった。それにもかかわらず、寄付金は目標額に達せず(1~2万円程と推測)、文部省甲種認定商業学校にあたる「東京佛敎商業學校」設立は資金面でとん挫をする。
       ここで、学校教育運営の現場責任者である梅原融は、「日華學堂」での教育経験を活かし、最初から立派な建物の学校より、小さなところから始める学校の方が良いと主張をした。高楠順次郎らは梅原融の学校設立と教育への熱意を受けて前川太兵衛の仲介で日本橋の蛎殻町にある杉村甚兵衛所有のかつては穀物商品取引所であり、当時は有楽館という倶楽部の建物を間借りすることとした。
       明治33(1900)年6月16日、高楠順次郎宅に“7人の侍” が集まり、夜間の学校で就業期限2年の日本橋簡易商業夜学校設立を決議した。明治33(1900)年9月22日同志が協力して数百通の学校案内を郵送、明治33(1900)年10月1日、学校法人中央学院の学校起源である今で言う実業専門学校にあたる日本橋簡易商業夜学校が設立、同年10月3日午後6時、22名の生徒は初授業を迎えた 。
       日常、夜間午後7時から9時30分までの実業専門学校にしたのは、日本橋付近の実業家の子弟や昼に働く商店の従業員のためへの便宜もあったし、日本橋簡易商業夜学校では無償に近く生計が立てられない教員に対し、昼は別の学校や職場で働ける経済的配慮があったと思われる。学校設備は、日本橋区長・仁杉英の支援で黒板や机、椅子、そして電灯ではなくランプが用意され授業が開始された 。この夜学教育の伝統は、明治35(1902)年中央商業学校附属別科夜学専修科から明治41(1908)年中央商業夜学校へ、そして大正15(1926)年中央商業学校夜間部増設、昭和23(1948)年中央高等学校第2部から昭和26(1951)年中央商業短期大学への夜学教育に引き継がれて行った。
       なお、「東京(佛教商業學校)」の名称ではなく「日本橋(簡易商業夜学校)」の名称にこだわったのは、日本橋が東京の中心、日本の中央であるという高楠順次郎の想いや日本橋区長・仁杉英始め多くの日本橋に在住する学校創立協賛者への謝意が「日本橋」の校名に込められていたと思う。
       また、前法主・大谷光尊上人から資金援助は、その後中央商業学校設立に際して順次支給が実現し、高楠順次郎の記憶では1万5千前後とのことであった。これ以外に東京商業中央学校生徒への補助金として5千円の支給があったようで 、資金援助は合計2万円となる。
       このように学校法人中央学院の学校起源に西本願寺から支援がなければ現在まで続く学校はなかったことになる。法人役員は、令和5(2023)年5月西本願寺で親鸞聖人御誕生850年、立教800年慶讃法要に参列し、仏縁に深謝したことは前記したが、いまだその報恩はできていない。
      【6】「日本橋」(日本橋簡易商業夜學校)と日本橋の商人の想い

      日本橋簡易商業夜学校校舎

      (写真)日本橋簡易商業夜學校設立時の全景(杉村甚兵衛所有のかつては穀物商品取引所で、当時は有楽館というクラブの建物の一階を借用して明治33(1900)年10月1日学校が設立、10月3日より授業が開始された。

       
       さて、「東京佛敎商業學校」構想が日本橋簡易商業夜學校となった経緯は、上記のように正規の普通商業学校設立の資金面のとん挫にあった。現代でいえば実業専門学校の日本橋簡易商業夜學校になった。日本橋に関して言えば、(1)高楠順次郎らは、まず東京に在住の同志の者の声として東京の中心に実業学校が必要である旨を前法主・大谷光尊上人に上申する。(2)前法主・大谷光尊上人は「例の商業学校を東京に拵(こしら)えるなら、なるべく日本橋でやったらよかろう」との助言を受ける 。(3)この助言で日本橋での学校設立が決まり、物件探しと前法主・大谷光尊上人支援金支給遅延にともなう資金獲得に動き出す。それには、以下のような日本橋の経済的事情があった。
       高楠順次郎らを中心に「反省会」 が結成された明治20(1887)年代以降は、欧化全盛の時代でキリスト教が教勢を拡大し、女性信者の獲得にも熱心で東京築地の外国人移住地には次々とキリスト教女学校が設立されていた 。この東京の動きに強い危機感を抱いたのが築地本願寺の僧侶やその有力門徒の日本橋商人であった。この日本橋京橋付近の商人は、近江出身のいわゆる近江商人であり、女性の和装品を扱う問屋が多かった。しかし、キリスト教に象徴される西欧化全盛の時代に女性の洋装品が急速に普及し、これら日本橋の和服商に深刻な影響を与えていた 。
       キリスト教ではなく仏教に深く根差した教育をする学校を日本橋に設立する創立者の想いと、当時の日本橋の呉服問屋を中心としたキリスト教普及に対する経済的危機感を有する地元の有力者との融合の中に学校設立があったと思慮される。
       なお、高楠順次郎ら創立者の学校づくりの原点は、「日華學堂」 にあった。このことは法人HP理事長メッセージに掲載中である 。「日華學堂」に参画した高楠順次郎はじめ、梅原融、宝閣善教、桜井義肇(さくらい ぎちょう)らが、「日華學堂」での学校経営を活かし、「日本橋商業中學」と「東京佛敎商業學校」構想を経て、まず暫定的に実業専門学校である「日本橋簡易商業夜學校」(明治33(1900)年10月1日)と2年後に本格的な文部省甲種認定商業学校である「中央商業学校」 (明治35(1902)年5月5日)を設立したことになる。
       いったん、とん挫した「東京佛敎商業學校」構想は、たった2年を経て「中央商業学校」設立へとその夢が実現をしていった。このような本法人の学校起源を考察するにつれ、常に財政との闘いの中で創意・工夫―をし、教育への情熱を失わない人間をリーダーとして、それを支え生徒の夢をかなえるため現場で粉骨砕身する教職員が過去も現在も法人教育事業を支えている。そして、教育への夢を実現させてくれるのは123年間当学校を選択してくれ、我々とともに歴史を築いてくれた園児・生徒・学生の皆さんのお蔭であっであって、125周年の主役はこの園児や学徒の方々であることを決して忘れてはならないと思う。
      16本稿の資料は、龍谷大学文学部歴史学科仏教史学専攻・教授、本願寺資料研究所委託研究員、中西直樹先生の提供によるものである(2023(令和5)年3月)。このような資料提供のご縁に対し、関係者一同、中西直樹先生に深謝を申し上げ、本年5月9日龍谷大学・中西直樹先生の研究室を訪問、親しく面談の機会を得て御礼を申し上げ、引き続きのご指導をお願いした(同伴者、入山義裕法人事務室特別相談役・創立125周年史編纂統括)。その後、5月20日に冠地和生・内藤徹雄常務理事も龍谷大学・中西直樹先生研究室を表敬訪問した。
      丁度、訪問時期は西本願寺で親鸞聖人御誕生850年、立教800年慶讃法要が開催されており、上記法人役員が特別法要に参列できたことも中西直樹先生のご縁のお陰である。
      17明治の1円を当時の物価等で現在の価値に換算すると1円は4千円程度という考えがある。これに換算に基づくと約2千万円の寄付となる。ただし、庶民の使用価値は1円が現在の2万円程度という説もあり、1円を2万円で換算すると約1億円の寄付となる(「明治時代の「1円」の価値ってどれぐらい?(1) | お金の歴史雑学コラム | man@bowまなぼう (manabow.com 2023.5.13アクセス))。
      18西本願寺当時前法主・大谷光尊氏の言葉、「高輪に別荘を建てるつもりの土地があるからそれを与える」。中島重義編集発行者「中央商業学校 宝閣先生追悼號」昭和15(1940)年12月10日、中央商業学校発行、124頁。
      19中央学院百年史編集委員会『中央学院100年史』(学校法人中央学院)、2002(平成14)年9月、32~33頁。
      20中島重義編集発行者、前掲書、「中央商業学校 宝閣先生追悼號」、125頁。
      21この7名の創立者の結びつきは、西本願寺普通教校(文学寮)同窓生以外にも、1902(明治35)年開設の西本願寺の高輪・仏教大学にも足跡がある。仏教大学では、酒生恵眼(学長)、佐竹観海(教頭)、高楠順次郎(東洋哲学)、梅原融(文章学)、宝閣善教(英語、法制史)、前田慧雲(仏教通史)、桜井義肇(作文)の7人が揃って教鞭をとっている。また、梅原融、宝閣善教、酒生恵眼、佐竹観海の4名は福井県出身の同郷の同志でもあった。
      22私立学校令(明治32年8月3日)のもとでの「実業学校令」第六条には「私人ハ本令ノ規定ニ依リ実業学校ヲ設置スルコトヲ得」と規定されている。
      (文部科学省、2018年9月27日アクセス)
      23中央学院百年史編集委員会、前掲書、35頁。
      24西本願寺(龍谷山 本願寺)宗門広報誌「教誨一瀾」189号(明治36(1903)年12月15日)、15頁
      25中島重義編集発行者、前掲書、「中央商業学校 宝閣先生追悼號」、124頁。
      26「反省会」とは、当時の仏教系学校に蔓延していた飲酒や喫煙の風紀の乱れを反省し、徳を積み人間の理想を求め、仏教精神による社会変革を訴える運動を意味する(欒殿武・柴田幹夫編著、『武蔵野大学シリーズ14 日華学堂とその時代―中国人留学生研究の新しい地平―』(武蔵野大学出版会)2022年、160頁)。この背景には、当時、相次いで創設された禁欲的倫理規範を有するキリスト教系の学校に対する仏教徒の危機感があった。反省会は1886(明治19)年結成され、その論集「反省(会)雑誌」は、後の「中央公論」に改名される。
      27東京一致英和学校、東京一致神学院(後の明治学院)、海岸女学院(後の青山学院)、東京中学院(後の関東学院)などである。
      28中西直樹稿「中央学院の源流-普通教校、反省会、日本橋の近江商人―」令和5(2023)年6月。令和5(2023)年10月17・18日、中央学院大学・中央学院大学中央高
      校での事前講演レジュメ。
      29東京佛教商業学校設立構想や日本橋簡易商業夜学校開校前夜の明治31(1898)年 7月、高楠順次郎は外務省次官・小村寿太郎の依頼と国の補助金を得て、東京本郷西片町に清国・派遣留学生が帝国大学、高等専門学校入学の速成予備科「日華學堂」を創設した。
      30理事長挨拶|中央学院大学 (cgu.ac.jp)
      31西本願寺(龍谷山 本願寺)宗門広報誌「教誨一瀾」では、中央商業学校の呼称として「私立中央商業学校」(「教誨一瀾」146号、明治35(1905)年10月5日号)、「東京中央商業学校」(「教誨一瀾」167号、明治36(1905)年5月5日号)等、さまざまに用いられている。学校法人中央学院としては一貫して「中央商業学校」である。
      (参考資料)
      本資料は、龍谷大学文学部歴史学科仏教史学専攻・教授、本願寺資料研究所委託研究員、中西直樹先生のご提供によるものである(2023(令和5)年3月)。

      教海一欄76号 明治33年9月11日
      ◎「東京佛敎商業學校」
      本派本山保護の下に、東京に佛敎商業學校の設立を見ることゝなれり、此は司敎前田慧雲、文學博士高楠順次郎諸氏の發起に係るものにて、已に日本橋區蛎殻町杉本五兵衛氏の所有たりし商品陳列館を購求して、其の校舍に充ることゝなし、明年五月に至て完成するの豫定なりと本山よりは直に金五千圓を設備費として下付せられたり

      教海一欄82号 明治33年12月11日
      ◎日本橋商業夜學校
      十月三日東京日本橋に開きたる商業夜學校は、本派の保護の下に創設したるものにて、佛敎主義の學校なるが、今同校事務監理者梅原融氏の報告を得たれば左に掲ぐ
      九月二十五日家主杉村甚兵衞氏と校主高楠順次郎氏との間に、校舍の件約成り、即日事務員之に移居し別紙廣告井に規則書を區内有力者に配付し、諸般の準備略ば整ひ、十月三日午後六時授業を開始す、當夜入學せし者三十餘名にして爾後濔一ヶ月の今日に於ては、九十六名の就學者を見るに至れり、現今の如くにして進で止まずんば、日ならずして百五十名若くば二百名巳上に達せしむるは敢て難たからずと職員一同奮闘事に従ひつゝあり
      授業は最初第四級のみを開きたりしが就學者の學カに差等あり一週日の後ち別に第三級を開き更に高等英學を學ばんとする者の爲めに英學專修科を開き又た一丁字の素養なき者の爲めに読書習宇の初歩を授ることゝし總じて四個の教塲を開けり教員として佐竹観海、宝閣善教、櫻井義肇、石川辰之助、阪井正旁、木内周五、松葉貞淨、中山了圓、諸氏之に從事し、直接責任者として梅原融氏事務敎務を監理し、校長南岩倉具威、校主高楠順次郎二氏亦た時々來りて學務を赬察す伝々
      明治三十三年十一月六日
      日本橋商業中學及日本橋簡易
      商業夜學校設立廣告
      日本橋區少年子弟及各商家に養はるゝ店員を教育せんが爲に今囘區内有力者の賛成を得て商業中學及簡易商業學校を開く
      一 校舎は日本橋蠣殻町三丁目十一番地杉村甚兵衛所有家屋(元有樂館)を以て之に充つ
      一 商業中學は來年四月を以て開き商業夜學校は來る十月一日を以て開く
      一 商業中學に関する詳細の事項は本年成立の時別に廣告すべし
      一 商業夜學校は商家に必要なる知識を授け德義を進め導ら實用を旨とし完全有爲の實業家を養成するを以て目的とす
      一 學科は初等科に於て簿記、和洋算術、作文、習字、読書、英語を教へ高等科に於て更に商業地理、歴史、商法、経済等を授く
      一 倫理及商業道徳に關し時々講話を開き生徒の徳性を開発する事に務むべし
      一 規則は尤も厳重にし殊に入學者の品行に注意しその昇降時間はその都度店主に報告すべし
      一 夜學授業料は全科を修むるものを毎月金八拾銭とし單に一科目を撰修するものを金貳拾銭とすその他撰科の多少に従ひ増減するものとす
      一 校費として毎月金貳拾銭を納めしむ
      一 毎日授業は午後七時より九時三十分までとし來る十月一日より開始する
      一 二十人已上の店員ありて特に英語の實習を望む商家の爲めには信用ある教師を選び出張教授せしむことあるべし
      一 夜學入學願書は九月二十一日より受付く

      明治三十三年九月 日本橋商業中學及簡易商業夜學校
      設立者
      文學博士 高楠順次郎

      同校長
      マスター、オブ、アーツ
      貴族院議員男爵 南岩倉具威

      同主監
      慶應義塾大學部卒業 梅原 融

      同設立賛助者
      仁杉 英
      藤田藤一郎
      杉村甚兵衛
      柿沼 谷蔵
      (學校規期は之を署す)
      教海一欄146号 明治35年10月5日
      ◎私立中央商業學校の概況
      東京市霊岸島銀町十四番地、私立中央商業學校文部省認可(甲種程度)は、去る明治三十ニ年十月本派東京在留靑年有志者の發起にて前の日本橋區長現同區撰出衆議院議員仁杉英氏及び同區有力者杉村甚兵鵆、柿沼谷藏、原亮三郎、前川太兵衞、小林利兵衛、藤田藤一郎等諸氏の賛助を得て、其當時同區蛎殻町三丁目十一番地を借受け、創立事務所を設け、傍ら商業夜學校を開き晝間勉學の餘暇なき、商家の子弟若くは雇人の敎育に從事するに至れり、爾來一意其成立に奔走せしが、甲種程皮商業學校には文部省に於て頗る嚴密の規定ありて、右敷地にては到底完全なる敎室を新築する能はざるのみならず、規定に應すべき一千坪以上の體操場を得るの見込み之れなきを以て本年ニ月一先づ前記創立事務所を引拂ひ、更に同三月霊岸島銀町元商船學校敷地を借受け、別に同校所有の煉瓦石造三層樓七十五坪の一棟を譲り受け、同校長平山藤次郎氏及び逓信省高等官各有志の厚意に依り、同校敷地内一千十九岼の體操場を無料にて借用するを得て、愈々同四月ニ十三日付文部省達甲第六十六號を以て、文部大臣より甲種商業學校設立の認可あり、貴族院議員男爵南岩倉具威、英國テクスフテルド大學マスターオブアーツ氏を校長に推し、敎員は主として、帝園大學高等商業學校の出身者にして、多年敎育に従事し、親切あり熱心ある人材を聘して之に宛て、去る五月一日取敢へぞ同校所定の豫科一年、二年級の新授業を開始するの運びに至れり、然るに右煉瓦建築物のみにては、多數の學生を收容する能はざるを以て、同七月新に教室に二百十坪の工事を起し本月を限り竣功の約束にて、今や其大半を成就するに至れりと、而して同校規則は左の如し

      私立中央商業學校規則
      第一條 本校ハ商業學校規程甲種程度ニ基キ主トシテ商業ニ従事セント欲スルモノニ對シ内外ノ商務ヲ虔理スルニ必須ナル教育ヲ施スヲ以テ目的トス
      第二條 本校ニ豫科本科ヲ置ク本科ニ於テハ商業ニ関スル學科ヲ授ケ豫科ニ於テハ本科ニ進マンガ為ニ必要ナル普通學科ヲ授ケルモノトス
      第三條 本科修業年限ハ三ケ年トシ豫科修業年限ハ二ケ年トス
      第四條 本校生徒定員ハ本科百五十名豫科百五十名トス
      第五條 學年ハ四月一日ニ始マリ翌年三月三十一日ニ終ル
      第六條 學年ヲ分チテ三學期トス第一學期ハ四月五日ヨリ七月廿日ニ至リ第ニ學期ハ九月一日ヨリ十二月二十四日ニ至リ第三學期ハ一月八日ヨリ三月三十一日ニ至ル
      第七條 毎週授業日數ハ豫科三十時以内本科三十三時以内トス
      第八篠 毎年休業日ヲ定ムルコト左ノ如し
      一 日曜日
      一 祝日
      一 大祭日
      一 夏季休業(七月二十一日ヨリ八月卅一日ニ至ル)
      一 冬季休業(十ニ月二十五日ヨリ一月七日ニ至ル)
      第九條 豫科本科共ニ各一學年ヲ以テ一學級トナス
      第十條 學科ハ本科に於テハ修身、読書、作文、習字、数學、簿記、地理、歴史、商品英語、法律、経済、商事要項、商業實践、體操の十五科ヲ課シ豫科に於テハ修身、國語、作文、習字、算術、地理、歴史、商品、英語、理科、體操ノ十一科ヲ課ス
      第十一條 本科豫科ノ學科課程ハ左ノ如シ
      第十二條 入學ノ期ハ學年ノ始メトス但シ欠員ヲ生ジタル場合ニ限リ第二學期及第三學期ノ始ヨリ十日以内ニ於テ入學ヲ許スコトアルベシ
      第十三條 本校ニ入學セント欲スル者ハ品行方正身體健全モノタルベシ  
      第十四條 年齢十二年以上ニシテ高等小學二年修了ノモノ若クハ之ト同等ノ學力ヲ有スルモノハ豫科第一年級へ入學セシム
      第十五條 年齢十四年以上ニシテ高等小學四年修了ノモノ又ハ之ト同等ノ學力ヲ有スルモノハ試験の上本科第一年級ニ入學セシム
      第十六條 豫科第二級己上ニ入學セントスルモノアルトキハ前各學年の學科程度ニヨリ試験ヲ施ベキモノトス
      第十七條 入學志願者ハ左ノ書式ニヨリ入學願書共ニ履歴書ヲ差出スベシ(書式略之)
      第十八條 入學ノ許可ヲ得タルモノハ左ノ書式ニヨリ保護者ヲ差出スベシ(書式略之)
      第十九條 左ノ各項ノ一二該当スルモノハ退學ヲ命ス
      一、性行不良ニシテ改良ノ見込ナシト認メタル者
      二、學力劣等ニシテ成業ノ見込ナシト認メタル者
      三、引續キ一ヶ年以上欠席シタル者
      四、正當ノ自由ナクシテ引績一ヶ月以上欠席シタル者
      第二十條 保證人ハ丁年以上ニシテ東京市内ニ住居シタル戸主ニシテ一家ヲ立ツルモノニ限ル
      第二十一條 保證人死亡若シクハ市外ニ移聨シタルトキハ直ニ代人ヲ立テ保證書ヲ差換ユベシ
      第二十二條 退學セント欲スルモノハソノ理由ヲ具シ保證人連署ノ願學ヲ差出スベシ
      第二十三條 學年試験ニ於テ引続キ二回落第シタルモノハ除名スベシ
      第二十四條 試験ヲ分チテ學期試験學年試験編入試驗入學試驗ノ四種トス
      第二十五條 學期試験ハ第一學期第二學期ノ末ニ於テ之レヲ施行ス
      第二十六條 學年試験は學年ノ末ニ於テ其學年中ニ履修シタル學料ニ就キ之ヲ施行ス
      第二十七條 豫科入學試驗ハ高等小學一年二年ノ程度ニ依リ各科目ニ就テ施行ス
      第二十八條 本科入學試験ハ本校豫科一年二年ノ程度ニ依リ各科目ニ就テ施行ス 但シ高等小學全科卒業ノ者ハ読書、数學、英語、理科ノ四科目ニ就テ試験ス
      第二十九條 各科目ノ評點ハ百點ヲ以テ最高點トス
      第三十絛 日常各科目中生徒ノ學力ヲ験シ評點ヲ附シタルモノヲ該科ノ日課點トナシ學期試験成績ノ参考ニ資ス
      第三十一絛 各課目學年平均點ハ第一第二學期評點ヲ平均シテ得タルモノニ學年試験點ヲ加ヘテ二除シテ之ヲ定ム
      第三十二條 學年評點ハ各科目總平均點ト該學年中ノ行狀點ヲ参酎シテ之ヲ定ム
      第三十三條 毎試験科目ニ於テ四捨點以上ノ評點ヲ得學年評點ニ於テ六捨點以上ヲ得タルモノヲ進級點トス
      第三十四條 總テ試験ニ欠席シタルモノハ原学級ニ留ムルモノトス但シ病氣又ハ正當ノ事由ニ依リ校長ノ認可ヲ得テ欠席シタルモノハ期日ヲ定メテ追試験ヲナスコトアルベシ
      第三十五條 第三學年學年試験評點ニ於テ合格ノ點数ヲ得タルモノヲ卒業者トス
      第三十六條 第三學年學年試験合格者並本科第一年以後毎年ノ評點ヲ通算シ各課目六十點以上總課目平均九十點以上ヲ得タルモノハ特ニ優等卒業者トス但シ行狀點ニ於テ一旦貧點ヲ得タルモノハ本條ノ限リニアラズ
      第三十七條 學年試験ニ及第セザルモノハ原級ニ留メ次學年ノ始メヨリ其級ノ全科ヲ再修セシム
      第三十八條 本科ヲ卒業シタル者ニハ證書ヲ授與ス
      第三十九條 卒業生中學業品行共ニ優等ノモノニ對シテハ特ニ優等卒業證書ヲ授與ス
      第四十條 學費ハ束修金壱圓授業料金貳圓トス但八月ハ之ヲ徴収セズ
      第四十一條 授業料ハ毎月十日以前ニ於テ之ヲ納付スベシ
      第四十二條 既納ノ束修及ビ授業料ハ一切之ヲ返附セザルモノトス
      第四十三條 在學生徒ハ出席ノ有無ニ拘ハラズ授業料ヲ納付スベキモノトス
      第四十四條 授業料怠納者アルトキハ之ヲ保證人ニ通知シ保證人通知ヲ受ケタル日ヨリ二週間以内ニ納付セザルトキハ其生徒ノ停學ヲ命スベシ
      第四十五條 凡ソ命令規則ニ違背スルモノハ之ヲ罰ス
      第四十六條 罰則ハ戒論停學退學ノ三トス
      第四十七條 建物若クハ器具等ヲ破損スルモノアルトキハ之ヲ賠償セシメ又ハ情狀ニヨリ處分スルコトアルベシ (参考資料以上)
      2023(令和5)年度入学式 理事長挨拶
      お祝いの言葉
      123年の伝統が息づく中央学院大学・大学院に入学をなされた748名の皆さん、ご入学誠におめでとうございます。
      新型コロナ感染症禍の高校生活の中で、不安を乗り越え、精進を重ねて、今日の良き日を迎えられました。また、お子様を慈しみ、ここまで育て上げられました保護者の皆様に、心からお祝いを申し上げます。保護者の皆様には、今後4年間、物心両面のご支援をお願い申し上げます。
      法人の歴史
      学校法人中央学院は、1900年(明治33年)、東京の中心・日本橋に「日本橋簡易商業夜学校」を設立、その後、中央商業学校、中央工業学校、中央高等学校、さくら幼稚園、中央中学校、中央商業高等学校、中央商業高等学校通信制、中央商科短期大学、徳山大学(現在の周南公立大学)の設立を経て、現在は中央学院大学、中央学院大学中央高等学校、中央学院高等学校を擁する法人です。
      中央の意味
      「中央学院」の『中央』は、社会の中央を志向する創立者の一人、高楠順次郎博士の強い意識の表れと伝えられています。物事の本質を右か左かという偏向を退け、多くの異質なもののなかから共通するところを探りあて、社会の中心となる合意や真理を探究する「中庸」の精神が込められています。明治時代の建学時の教育理念も、日本人としての仏教倫理教育(徳目主義)と西欧の近代科学を背景とした実学教育(実利主義)の融合(「中庸」)でした。
      大学の歴史
      中央学院大学は昭和41(1966)年、元内閣総理大臣大平正芳氏を理事長として、この北の鎌倉と称さる風光明媚な我孫子の地に産声を上げました。現在、大学院商学研究科、商学部、法学部、現代教養学部が開設されています。明治時代の建学時の精神は、大学の教育の理念である「公正な社会観と倫理観の涵養」に受け継がれ、大学は56年目の充実の春を迎えています。
      新しい歴史
      それにしても、人間の絆を裂き、社会に悲しみと混乱を引き起こした新型コロナ感染症禍にあって、私たちは智慧と医学の力を駆使して、これを乗り越えようとしています。多くの犠牲の上に形成される新しい社会(ニューノーマル)では、皆さんがいかなる場面でも学びの歩みを止めないで、困難に打ち勝ち生きる力の養成が問われています。これこそが、世紀を越えてこの法人が生き残ってきた教育理念であり、これからも目指す教育であります。
      125周年記念事業
      皆さんが3年生を迎える令和7(2025)年に学校創立125周年を迎え、その準備が進められております。 125年続く理念の継承とその発展をさせるべく、“世紀を越えて つながる伝統”の旗印の下、皆さんとともに125周年の伝統を祝い、さらなる発展を期したいと存じます。
      エールの言葉
      このような非常に大切な年に、皆さんを迎えることができ嬉しい限りです。
      皆さんの実りある学生生活をお祈りし、私の祝辞と致します。
      2023(令和5)年4月3日
      第11代理事長 椎名 市郎
      2022(令和4)年10月 理事長メッセージ(「日華学堂」について)

      学校法人中央学院学校起源の夜明け前「日華学堂」について
            日本橋簡易商業夜学校開校前夜の物語

      【1】学校法人武蔵野大学と学校法人中央学院

       令和4(2022)年7月19日、本法人同様、高楠順次郎を学祖として敬う「学校法人 武蔵野大学」の石上和敬副学長先生、三上嘉賢総務部長がご来校された。その趣旨は、武蔵野大学100周年記念事業を契機に、同じ高楠順次郎を学祖(創始者)とした二つの大学間の交流であった。
       その後、石上副学長先生より、訪問礼状と欒殿武(らん ひろたけ)・柴田幹夫編著『武蔵野大学シリーズ14  日華学堂とその時代―中国人留学生研究の新しい地平―』(武蔵野大学出版会)のご恵贈を受けた(以降、玉書と称す)。この玉書は、当職に新たな角度で本法人学校起源の夜明け前の歴史を学び直す機会を与えてくれた。

      【2】「日華學堂」(明治31(1898)年)と日本橋簡易商業夜学校(明治33(1900)年)

       結論から言えば、高楠順次郎(たかくす じゅんじろう)の学校づくりの原点がこの「日華学堂」にあり、ここに参画した高楠順次郎はじめ、梅原融(うめはら とおる)、宝閣善教(ほうかく ぜんきょう)、桜井義肇(さくらい ぎちょう)らが、「日華學堂」での学校経営を活かし、「日本橋商業中學」構想や「東京佛教商業學校」構想を経て、「日本橋簡易商業夜学校」(明治33(1900)年)と「中央商業学校」(明治35(1902)年)を設立したことにある。
       学校法人中央学院学校起源の原点であるこの「日華學堂」は、125年に及ぶ本法人の歴史に足跡は残すものの1これまで十分な歴史の検証とその継承がなされてこなかった。玉書によれば、日本橋簡易商業夜学校開校前夜の明治31(1898)年 7月、高楠順次郎は外務省次官・小村寿太郎の依頼と補助金を得て、東京本郷西片町に清国・派遣留学生の帝国大学、高等専門学校入学の速成予備科「日華學堂」を創設した。

      【3】「日華學堂」の歴史と学校法人中央学院

       この玉書では、清国の留学生速成予備校であった「日華学堂」の凝縮された2年2ケ月(明治31(1898)年7月から明治33年(1900)年9月)の歩みがその歴史的背景や教育内容・学堂運営・留学生生活、そして、卒業生の多方面にわたる活躍が記されている。宝閣善教の「日華学堂日誌」の資料を掘り起こし、他の文献を丹念に渉猟・分析し、現代に通じる留学生教育の足跡を論じた労作である。
       「日華學堂」の学校運営を担ったのは、総監・高楠順次郎、初代堂監・中島裁之、二代目堂監・宝閣善教、主監・梅原融らであった。高楠順次郎は英語、宝閣善教は英文法、梅原融は物理・化学・会話・読解を担当する教師2として、三者は10年ぶりに東京で再会を果たす。これに同窓の桜井義肇が「日華學堂」での地理担当の教師として就任する。

      【4】反省会と建学の精神の萌芽

       高楠順次郎の「日華學堂」運営に協力をしたのは、修養団体「反省会」運動 の同志で西本願寺普通教校(後の文学寮)同窓生で僧籍を有していた者が中心であった。禁酒を謳うこの「反省会」は、京都で新島襄が創設したプロテスタント系の同志社を意識したものであった。同志社では、禁酒の禁欲的な規範を保ち、プロテスタンティズムの誠実、勤勉な徳の倫理を重視する学風であった。
       それに対し、当時の日本の学校に蔓延していた飲酒の風紀の乱れであった。これを若き仏教学徒が教育の危機として改革を求める運動が「反省会」であった。特に、学校の風紀の乱れ以外でも商業(商売)の世界は、政治と結びついた政商が主流で、士農工商の最下層「商」の通り、商業活動は倫理の外に置かれていた。ここに、仏教倫理の復興を願う創立者たちが仏教倫理や時には伝統的な武士道の精神の人材復活を願い、日本橋簡易商業夜学校設立への機運の高まりに通じる。その源流から派生した精神が現代の大学の建学の精神「公正な社会観と倫理観の涵養」へと通じる。

      【5】学校法人中央学院の学校起源創立者“7人の侍”

       玉書、第三章において柴田幹夫博士が、本学の創始者でもある高楠順次郎(日本橋簡易商業夜学校校主)はじめ、梅原融(同校主監・西本願寺派布教師)、宝閣善教(中央商業高等学校第二代校長・西本願寺派僧侶)の活躍を詳しく論述している。高楠順次郎・梅原融・宝閣善教は、いずれも西本願寺普通教校(後の文学寮)の同窓生であった。
       仏教的信仰によって培われた信念と商業理論と実技とを体得した立派な商士を育成する境域機関の設立に共鳴した高楠順次郎、宝閣善教、梅原融、桜井義肇のいわゆる学校起源発起人“7人の侍”の内、4名が「日華學堂」に集ったことは玉書の歴史的資料で確認できた。
       残る西本願寺普通教校(文学寮―現在の龍谷大学)の同窓の文学博士・前田慧雲(まえだえうん)、佐竹観海(さたけ かんかい)、酒生恵眼(さこう えげん)は、「日華學堂」との関連は不明である。創立者の一人・酒生恵眼は、「日華學堂」より「反省会」の「反省(会)雑誌」の編集に参画した同志 であった。
       1900(明治33)年6月16日、高楠順次郎宅にこの“7人の侍”が集まり、日本橋簡易商業夜学校設立を決議した。この7名の創立者の結びつきは、西本願寺普通教校(文学寮)同窓生以外にも、1902(明治35)年開設の西本願寺の高輪・仏教大学にも足跡がある。
       仏教大学では、酒生恵眼(学長)、佐竹観海(教頭)、高楠順次郎(東洋哲学)、梅原融(文章学)、宝閣善教(英語、法制史)、前田慧雲(仏教通史)、桜井義肇(作文)の7人が揃って教鞭をとっている 。また、梅原融、宝閣善教、酒生恵眼、佐竹観海の4名は福井県出身の同郷の同志でもあった。

      【6】125年の歴史から学ぶ回顧と展望

       我々がこのような中央学院の歴史的事実を考察する際は、125年の回顧や歴史の重みに対する先人への畏敬以外に、激動している現在の法人の状況に解を求める有機的因果関係を探ることにある 。まさに、「古人の跡を求めず、古人の求めるところを求める」 である。
       その意味で、我々が歴史的事実から学ぶことは、いつの時代も教育の創造・発展は、まず共鳴を抱くリーダーの下に同志が集まり、その同志が役割分担をしあって形成してきたことにある。理想を掲げる組織を象徴する人物、その人物の理想を実現するために共鳴して奔走する仲間、そして、理想と現実の谷間で教育実践する熱意ある現場実践教育者という構造となる。
       翻って現在、理事長、学長、校長は、理想を掲げ人徳を得て同志を募っているか。副学長、学部長、教頭は理想実現のために役割分担して教育に奔走をしているか。教育現場に立ち全身全霊で教育に携わる教員は、高楠順次郎の総合的人間力の基本である建学の精神を学生・生徒の手本として遂行しているか。他人を批判するだけの能力にのみ長けて、己を厳しき見つめ研鑽を積むことを忘れてはいないか。“立ち向かう人の姿は我が身なり”の謙虚さを忘れてはいないか。これらの問いかけは、先人が混迷する現代を生き抜くために我々に常に問う自戒への歴史の魂の叫びともいえる。まさに、「古人の跡を求めず、古人の求めるところを求める」ことなのである。

      【7】再び、建学の精神再考

       高楠順次郎の言葉(伝承-出典不明)として現中央学院大学中央高校の歴代校長が引き継いできた言葉(学校法人中央学院、中央学院大学中央高校、中央学院高校の建学の精神)は以下のようである8

         「誠実に謙虚に生きよ
            温かい心で人に接し
              奉仕と感謝の心を忘れるな
                常に身を慎み
                  反省と研鑽を忘れるな」


       これは、学生・生徒ではなくその模範を示す教職員へのメッセージとして受け取るべきと考える。いわく、「(学校に)修身(道徳)の科目は必要としない。教師がみな修身の教師だからである」の高楠順次郎の言葉が伝わっている9。この建学精神の中心は、冒頭の「誠実」にある。中央商業高等学校では玄関に校是として「誠実」の額(卒業生・松丸長三郎筆)が掲げられていた10
      この高楠順次郎の建学の精神が、大学創生期の第二代、四代、六代学長石本三郎の下での以下の中央学院大学の建学の精神へと繋がる。
           「公正な社会観と倫理観の涵養」
       なお、中央学院大学設立趣意書の建学の精神は、中央学院大学学則第1条に明記されている「産学協同」であった(当時、証券会社からの3億8千万円の出資を得ての証券大学構想は、昭和39年後半から40年にかけての証券不況大パニックでとん挫をする)。
       また、「公正な社会観と倫理観の涵養」以前の初代学長・湯村栄一の開学時の訓示の言葉は、現在も本館1階正面入り口に掲げられている苗剣秋11「宿命に生れ、運命に挑み、使命に燃ゆ」であった。


       末文で失礼ながら、隆盛をほこる学校法人 武蔵野大学の2024年創立100周年(1924年-2024年)に対し、当法人挙げて衷心より祝意を表したい。また、3年後の2025(令和7)年10月1日、当法人も苦節125年目の祝いの秋を迎える。
       高楠順次郎の言葉(伝承-出典不明)として現中央学院大学中央高校の歴代校長が引き継いできた言葉(学校法人中央学院、中央学院大学中央高校、中央学院高校の建学の精神)は以下のようである8

         「誠実に謙虚に生きよ
            温かい心で人に接し
              奉仕と感謝の心を忘れるな
                常に身を慎み
                  反省と研鑽を忘れるな」


       これは、学生・生徒ではなくその模範を示す教職員へのメッセージとして受け取るべきと考える。高楠順次郎の言葉ーいわく、「(学校に)修身(道徳)の科目は必要としない。教師がみな修身の教師だからである」が伝わっている9。この建学精神の中心は、冒頭の「誠実」にある。中央商業高等学校では玄関に校是として「誠実」の額(卒業生・松丸長三郎筆)が掲げられていた10
      この高楠順次郎の建学の精神が、大学創生期の第二代、四代、六代学長石本三郎の下での以下の中央学院大学の建学の精神へと繋がる。
           「公正な社会観と倫理観の涵養」
       なお、中央学院大学設立趣意書の建学の精神は、中央学院大学学則第1条に明記されている「産学協同」であった(当時、証券会社からの3億8千万円の出資を得ての証券大学構想は、昭和39年後半から40年にかけての証券不況大パニックでとん挫をする)。
       また、「公正な社会観と倫理観の涵養」以前の初代学長・湯村栄一の開学時の訓示の言葉は、現在も本館1階正面入り口に掲げられている苗剣秋11の「宿命に生れ、運命に挑み、使命に燃ゆ」であった。


       ここに末文で失礼ながら、隆盛をほこる学校法人 武蔵野大学の2024年創立100周年(1924年-2024年)に対し、当法人挙げて衷心より祝意を表したい。また、3年後の2025(令和7)年10月1日、当法人も苦節125年目の祝いの秋を迎える。

      HPバナー学校法人中央学院創立125周年記念事業ロゴ

       2022(令和4年)10月1日
       学校法人中央学院学校起源日
      (日本橋簡易商業夜学校開校記念日)
      (椎名市郎理事長 HP メッセージを一部加筆修正再録)

      日本橋簡易商業夜学校校舎

      1900(明治33)年10月1日創立
      日本橋簡易商業夜学校校舎

      初代校舎「三層楼」

      1902(明治35)年5月5日創立
      中央商業学校校舎

        1中央学院八十年史刊行部会編『中央学院八十年史』(中央公論事業出版)、昭和57年、54頁~55頁。中央学院百年史編集委員会編『中央学院100年史』(学校法人中央学院)、平成14年、30頁~31頁。
        2欒殿武・柴田幹夫編著、『武蔵野大学シリーズ14 日華学堂とその時代―中国人留学生研究の新しい地平―』(武蔵野大学出版会)2022年、180頁。
        3「反省会」とは、当時の学校に蔓延していた飲酒や喫煙の風紀の乱れを反省し、徳を積み人間の理想を求め、仏教精神による社会変革を訴える運動を意味する(欒殿武・柴田幹夫編著、同上書、160頁)。この背景には、当時、相次いで創設されたキリスト教系の規律あふれる学校への危機感があった。反省会は1886(明治19)年結成され、その論集「反省(会)雑誌」は、後の「中央公論」に改称される。
        4学校起源発起人“7人の侍”は、すべて「日華學堂」に集ったとの記述がある(中央学院百年史編集委員会編、前掲書、31頁)。しかし、前田慧雲、佐竹観海、酒生恵眼の3名と「日華學堂」との関係は玉書でも不明である。
        5中央学院八十年史刊行部会編、前掲書、68~69頁。
        6E.H.カー著、近藤和彦訳『歴史とは何か』(岩波書店)、2022年、29頁。
        7中央学院六十年史編纂委員会編『中央学院六十年史』(中央公論事業出版)、昭和38年、494頁。
        8高楠順次郎の言葉は、菩薩の心に通じる。
      「他に慈しみを与え 自ら行を律し 忍耐強く努力し 知恵を磨くのが 菩薩であり 幸福をつかむ」(奈良 薬師寺・金堂教示 昭和41(1966)年9月)
        9武蔵野大学学祖高楠順次郎研究会編『高楠順次郎の教育理念』(学校法人武蔵野女子学院)、平成17年、112頁。文中のカギかっこ部分は椎名が挿入。
        10中央学院六十年史編纂委員会編、前掲書、「Ⅱ 現代・展望篇」冒頭の写真、125~127頁、187頁。
        11苗剣秋(みょう けんしゅうー日本語表記)は、張学良と学友であり、西安事件の立役者といわれ、周恩来とも懇意であった。共産主義と日中の特性に関する批判的評論で有名。日本留学中、一高卒・東大文学部(中退)、高等文官試験に合格している。
      2022(令和4)年1月 理事長メッセージ(学校起源について)

      学校法人中央学院の学校起源について

      寅年は飛躍の年と言われています。小生も寅年生まれです。皆様の支えを礎に一層の精進を重ねてまいります。
      今回は、大切な学校法人中央学院の学校起源(1900(明治33)年10月1日)について述べます。学校起源から、すべての法人の歴史が始まり、2025(令和7)年には創立125周年を迎えるからです。

      【1】学校法人中央学院の学校起源に関する新しい理事会決定事項

      さて、2021(令和3)年4月28日学校法人中央学院理事会において、下記の理事長提案が満場一致で可決・承認されました。
       
      (1)学校法人中央学院の「学校起源年」は、日本橋簡易商業夜学校が創立された1900(明治33)年とする。
      (2)「学校起源日」は、1900(明治33)年10月1日(日本橋簡易商業夜学校開設日)とする。
      (3)2017(平成29)年5月31日の理事会報告事項での「1902(明治35)年を創立年とする」は、本日の決議をもって1900(明治33)年にこれを修正する。
      (4)現在の大学・高等学校の各学校の創立記念日(旧中央商業学校創立記念日1902(明治35)年5月5日)はこれを尊重し、学校法人中央学院の「学校起源日」と区別する。
      (5)大学・高校での学校法人中央学院の「学校起源日」の祝日等の取り扱いは、各学校の自主的な判断に委ね、まず緩やかにこれを運用していく。

      【2】学校起源と教育理念

       学校の創立を学校法人中央学院の教育起源とすれば、その歴史は1900(明治33)年日本橋簡易商業夜学校創立に遡ります。この日本橋簡易商業夜学校の創立は、早稲田実業学校が開校される1年前のことと言われています(※1)。
       建学の目的は、近代国家建設の日本経済を支える国際的商業人の育成にありました。教育の精神は、当時の日本銀行を中心に商業・金融中心地である日本橋の呉服商や薬種商、飲食業、金融・運輸業等に従事する若い人々に、イギリスの紳士教育をモデルにした実学教育に東洋の仏教的商業倫理観を習得させることにありました。
       西欧の近代思想を背景にした実学教育(実利主義)と 日本人としての仏教倫理教育(徳目主義)との融合(「中庸」)が「中央」の呼称の基にありました。学校経営の特色は、「広義の宗教系の学校とはいえるが、宗教法人そのものが直接設立したいわゆる宗教学校ではなく、仕事を異にする人々の意思を結集し、宗教的にも健全な在野の精神から生まれた学校」(※2)で、この特色は現在に至るまで引き継がれています。

      【3】二つの学校起源の存在

       学校法人中央学院の学校起源の年に関しては、過去、1900(明治33)年10月1日日本橋簡易商業夜学校創立説と1902(明治35)年5月5日中央商業学校設立説がありました。ちなみに、学校法人中央学院創立60周年(1962(昭和37)年)、80周年(1982(昭和57)年)、100周年(2002(平成14)年)は、母体中央商業学校創設1902年を起点として実施された。また、中央学院大学中央高校120周年事業(2020(令和2)年)は、1900年を起算年として実施されてきています。
       2008(平成20)年、この二つの起源説の2年間をつなぐ貴重な物証が出現しました。それは、両校の関係を記した明治36年学生論文集-「專修部・校友會編『會報』」(※3)(参考資料①。以降、『會報』と称す。)-の発見でした。2008年当時理事長の吉野賢治氏より当時学長であった椎名市郎は、この実物資料の提供を受け内容を検討しました。
       この『會報』によれば、1900年設立の日本橋簡易商業夜学校が、その後、校舎の狭隘を理由に京橋区の旧商船学校跡地に校舎を移転したこと、校舎移転と同時に文部省甲種認定を受け、中央商業学校に校名変更をしたことが記されていました。ここまでの歴史は、『會報』を見なくても我々関係者の周知の事実でした。

      【4】日本橋簡易商業夜学校と中央商業学校との関係

       『會報』で新たに発見されたことは、1900年創立の日本橋簡易商業夜学校の学生がこの移転・改名措置を「嘆涙を呑んでやむなく受け入れ」(※4)、中央商業学校夜間部に(編)入学をしたと記されている(※5)ことにありました(参考資料②)。つまり、日本橋簡易商業夜学校の学生は、後の中央商業学校の卒業生でもあったことです。
       創立者7名は、まず暫定的な準備学校である日本橋簡易商業夜学校を創立し、次いで本格的(文部省甲種認定)な中央商業学校を設立したのでした。日本橋簡易商業夜学校と中央商業学校の関係は両者一体であり、学校名こそ異なりますが、現代で言えば同一法人(※6)の運営であったといえます。
       これを裏付けるように、法人100周年記念誌『中央学院100年史』では、「日本橋簡易商業夜学校と中央商業学校の学校経営は引き続き校主・高楠順次郎、校長・南岩倉具威、主監・梅原融の布陣」であったと記されています(※7)。日本橋簡易商業夜学校創立の主要メンバーが、引き続き、中央商業学校を創設したことになります。
       加えて、上記のように中央商業学校在校生に日本橋簡易商業夜学校の学生が(編)入学で在籍し、中央商業学校を卒業していたことも明らかとなりました。まさに、法人の学校起源は1900年であることが再確認されたのです(※8)。

       

      【5】理事会決定の背景にある理事長の想い

       ただ、問題は2017(平成29)年5月31日の理事会・報告事項で「1902(明治35)年を創立年とする」と議事録に記されていることでした。私は、勉強不足で理事長になるまで、この確認事項の存在を知りませんでした。これを報告事項ではなく、きちんと審議事項として取り上げて、「学校起源年月日」を1900(明治33)年10月1日(日本橋簡易商業夜学校開設日)を法人の学校起源と修正したのが昨年の理事会決定でした。
       日本橋簡易商業夜学校の1900年から中央商業学校の1902年のこの2年間は、先人が辛酸をなめ幾多の苦難を乗り越えて学校を創立した時期でもあります。法人の歴史上、極めて重要な胎動期といえるでしょう。法人関係者は、この創立者達の2年間の艱難辛苦の努力を末永く讃え、深謝する意味でも法人の学校起源は1900年でなければならないとするのが私の強い信念で、その想いが2021(令和3)年4月28日理事会の理事長提案でした。
       ここに、2021(令和3)年4月28日学校法人中央学院理事会において、「学校起源年月日」を1900(明治33)年10月1日(日本橋簡易商業夜学校開設日)とする理事長提案が満場一致で可決・承認された所以があります。「愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ(ビスマルク)」という諺があります。学校創設122年を迎えた今年も、歴史から新しい多くのことを学ぶことができると思います(※9)。
       

      2022(令和4)年1月11日
      第11代理事長 椎名市郎

      ※1 中央学院八十年史刊行部会編『中央学院八十年史』(学校法人中央学院)、1982(昭和57)年、59頁。
      ※2 中央学院八十年史刊行部会編、同上書、63頁。
      ※3 校友會・專修部編『會報』第壹号、1903(明治36)年5月25日発行。
      ※4 校友會・專修部編、同上『會報』、一頁。
      ※5 日本橋簡易夜学校から中央商業学校夜間部に(編)入学した中央商業高校第3期生杉田勇吉氏の当時の学生時代の回顧が紹介されている。中央学院八十年史刊行部会編、前掲書、64頁、77~78頁。
      ※6 私立学校令(明治32年8月3日)のもとでの「実業学校令」第六条には「私人ハ本令ノ規定ニ依リ実業学校ヲ設置スルコトヲ得」と規定されている。
      <文部科学省 実業学校令(明治三十二年二月七日勅令第二十九号)はこちら
      明治の創設期には学校法人の法律上の概念も規程も存在していない。当時は設立者数名による私人の共同経営形態であり、代表者名(校主・高楠順次郎)が登録されるのみであった。
      ※7 中央学院百年史編集委員会『中央学院100年史』(学校法人中央学院)、2002(平成14)年9月、37頁。引用文中の括弧書きは椎名市郎が挿入。
      ※8 この当時、法律的には学校法人の概念は存在しないが、歴史の中で生成・消滅した学校の変遷を、法律の枠を超えて統一的に把握する概念として、法人の概念を援用せざるを得ない。学校の創立を法人の学校起源と解するのはこのためである。
      ※9 本メッセージは、佐藤英明・佐藤寛・椎名市郎稿「中央学院大学『現代教養学部』設置の経緯と趣旨(上)」、『中央学院大学現代教養論叢』(創刊号、2019(令和元)年3月)所収の上巻―椎名市郎担当文責部分154~162頁を大幅に編集しなおして、2021(令和3)年4月28日学校法人中央学院理事会に椎名が提案した資料「学校法人中央学院の学校起源と建学の精神」(1~17頁)を縮小版として書き改めたものである。 

      會報第壹号

      (参考資料①―明治36年学生論文集-「專修部・校友會編『會報』表紙」)

      會報発刊の辞

      (参考資料②―明治36年学生論文集-「校友會・專修部編『會報』1頁、本文中の 線は椎名が挿入」)
      2021(令和3)年4月 理事長メッセージ(令和3年 新学期を迎えるにあたり)
       学校法人中央学院の学校起源は、今から121年も前にさかのぼります。1900(明治33)年、東京の中心・日本橋に「日本橋簡易商業夜学校」を設立したのが教育の始まりです。その後、中央商業学校、中央工業学校、さくら幼稚園、中央中学校、中央商業高等学校、中央商業高等学校通信制、中央商科短期大学、徳山大学設立などを経て、現在は中央学院大学、中央学院大学中央高等学校、中央学院高等学校を擁する学校法人です。

       「中央学院」の『中央』は、社会・文化・教育の中心・中央を志向する創立者の一人、高楠順次郎の強い意識の表れと伝えられています。物事の本質を右か左かという偏向を退ける学問姿勢と多くの異質なもののなから共通するところを探りあて社会の中心となる合意形成やニュートラルな姿勢で中央の真理を探究する「中庸」の精神が込められていると言われています。
       

      椎名理事長2020

      椎名市郎 理事長
       建学時の教育理念は、日本人としての仏教倫理教育(徳目主義)と西欧の近代思想を背景にした実学教育(実利主義)の融合(「中庸」)にありました。この伝統を引き継いで、中央学院大学(千葉県我孫子市)は、大学院商学研究科(修士課程)、商学部、法学部、現代教養学部が開設されています。学校起源の精神は、現在の「公正な社会観と倫理観の涵養」という大学建学の精神に引き継がれ、大学は56年目の充実期に入りました。

       また、大学の母体となる中央学院大学中央高校(東京都江東区)は、2020(令和2)年創立120周年記念式典を挙行いたしました。中央学院高校(千葉県我孫子市)においても、2020(令和2)年設立50周年記念式典が行われました。大学と二つの付属高校との教育連携は、学長と両校長との間で開催される「学校長会議」で意見交換がなされ、理事会に提言できる環境が整っています。

       さて、「学校法人中央学院 中・長期計画 第2期中期計画」が、2021(令和3)年3月24日評議員会の意見を聴き、同日、理事会決定されました。第2期中期計画の本質は、教育事業の改善にあり、その焦点は教育に携わる人間の意識改革にあると考えています。そして、第2期中期計画は、学生・生徒・保護者・地域社会などのステークホールダーの期待に責任を果たす決意表明であることも忘れてはならないと思います。

       それにしても、人間の絆を裂き、社会に悲しみと混乱を引き起こしたコロナ禍にあって、私たちは智慧と科学の力を駆使して、これを乗り越えようとしています。多くの犠牲の上に形成される新しい社会(ニューノーマル)では、いかなる場面でも教育の歩みを止めない遠隔・オンラインやオンデマンド授業等を開発し、対面授業とのハイブリッド型教育を実現しようとしています。それは、困難に打ち勝つ生きる力の養成こそが本当の教育であることを教えてくれているかのようです。

       121年続く不変の原則の遵守と時代とともにその原則を進化・発展させる中央学院の中央の精神を大切に、今後も教育事業に邁進してまいります。

      2021(令和3)年4月1日
      第11代理事長 椎名市郎
      2020(令和2)年12月 理事長挨拶(理事長 就任について)

      学校法人中央学院 理事長 就任について

      平素より本学の教育・研究活動に関しまして、ご理解とご協力を賜り、誠にありがとうございます。
      学校法人中央学院は、2020(令和2)年12月1日(火)に新理事会を開催し、理事の椎名 市郎(しいな いちろう)を新理事長として選任いたしましたのでお知らせいたします。
                                                   2020(令和2)年12月1日
      学校法人中央学院

      椎名市郎理事長

      【理事長就任の挨拶】
      この度、理事長に選任して頂きました椎名市郎でございます。
      浅学非才な者をこうして理事長として理事会にご推薦をいただいた方と、本日ご承認をいただきました理事の皆々様に厚く御礼申し上げます。
      学校法人中央学院の初代理事長は大平正芳元内閣総理大臣、そこから数えて9人目の理事長となります(中央学院以前は中央教育財団)。
      120年(1900年・明治33年創立)の歴史と伝統を有する当法人は、前理事長までは法人母体である中央商業高校の出身の大先輩がここまで大過なく運営をしていただきました。本日、53年の歴史の中央学院大学出身者がこうした大役を仰せつかることに対し、その責任の重さに身が引き締まる思いであります。
      120年の法人の歴史は平坦な歴史ではございませんでした。むしろ、苦難に満ち辛酸をなめて生き抜いてきた歴史でございます。現下の世界中を覆う新型コロナウイルス感染症による非常事態の中で、伝統を引き継ぎ、新たなる教育価値創造に向けて英知を結集したいと思います。
      そのためには、中央学院大学学長、中央学院大学中央高等学校並びに中央学院高等学校の両校長先生はじめ現場の教職員の皆様のご意見を基礎に、理事・評議員、監事、顧問・参与のご指導を仰ぎ、法人運営をしてまいります。
      今後ともご指導・ご鞭撻のほどをよろしくお願い申し上げます。
      <2020(令和2)年12月1日理事会席上にて>