グローカルデザイン
    Glocal Design

    エッセイ

    「ウランバートル市の一時的な大雨による洪水と都市計画の不備」(2024年3月19日掲載)
    中央学院大学 現代教養学部長/教授 佐藤寛
    中央学院大学と連携協定を締結しているモンゴル教育文化大学創立30周年記念レセプションに招かれて、2023年8月にモンゴルを4年ぶりに訪問した。1996年からモンゴルを訪問するのが8回目になる。筆者の専門領域は環境社会学なので、毎回、モンゴルを訪問する際に、ウランバートル市内を流れる大河川のトーラ川の汚染が最も深刻になっている場所を調査に行くのが課題となっている。今回、ウランバートル市で、大きく関心を集めたのが洪水である。2023年7月6日から8日と7月23日にウランバートル市に降った雨により、市内の多くの住宅や建物に損害が被り、道路も破壊された。人気のニュースサイトである、news.mnのニュースによると、ウランバートル市内は都市計画の不備によって、このような甚大な被害が生じたという説明をしている。 さらに、当サイトに、ここ30年で都市計画が進まず、土地の割り当てやインフラ整備が整っていないと強調している。


    筆者は、トーラ川の汚染を毎回みてきたが、ウランバートル市の中心部を流れるトータ川の支川のセレベという小さい川を研究対象にしていた。セレベ川の水質や様相は訪問の度に瞥見してきた。この川は幅が狭く、水量が少ない。川の中は雑草が生い茂り、普段は水の流れが少ない浅瀬の川である。

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    出典:「セレベ川の氾濫」(https://news.mn/r/2663389/)
    マスメディアによると、7月の洪水の原因は次のようなものだったと報道している。セレベ川の周辺の無計画な土地配分(川の周辺まで、ぎりぎりに建てた住宅街が急増している。川の自然の流れを変えて作られた住宅等の建物もある)が原因で、急激な大量の降雨のためにセレべ川は氾濫してしまった。川の周辺までぎりぎりに建物を建築した建設業者が、洪水構造物、ダム、防護工事等を、計画に基づいて実施していないというニュースが目立っている。行政当局は洪水の後、川の近くのガソリンスタンドを強制的に移動させている。
    olloo.mnのニュースによると、7月と8月にウランバートルで発生した洪水により、120のホロー(番地)、1万1,956世帯、3万4,473人、542の建物、584の住宅、146の企業や団体、230台の車両が被害を被った。さらに、21か所の道路が冠水し、7万4,023人の市民が電気を使えなくなり、4人が命を落としている。このような深刻な事態を受けて、「汚職取締庁は、役人がその地位を濫用し、土地・水法およびその他の法律に違反し、洪水ダムや溝のある地域での土地取得および建設の許可を多数発行したのが原因である」とikon.mnが報道している。これらのニュースを見ると、今回の洪水は、ウランバートル市で会った多くのモンゴル人が話していたように、自然災害ではなく、人災、いわゆる、役人の土地売買、わいろが原因とも言われている。

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    浅瀬のセレべ川:ウランバートル市郊外のゲル地区を流れる
    撮影:筆者 2023年8月7日
    通訳をしてくれたモンゴル教育文化大学の教員が、「道路の下にあるインフラ設備等を整備する必要がある。古い方法ではもはや十分ではない。 土木工事を始め、詳細な計画や基準に従って建設を行う必要がある」と話していた。確かに、近年、ウランバートル市で建設ブームが起きており、市民は「コンクリートの森」と言っている、16階から25階の高級ニュータウンが数多く建てられている。今は、ウランバートル市で1週間雨が降れば、再び洪水が起こる恐れがある。トーラ川の汚染問題を長年研究してきた筆者の判断では、公害によるウランバートル市内の河川の汚染の問題、そして今回、ウランバートル市内に大きな洪水被害が起こったことは人災であることは否定できない。人災による洪水問題の解決に期待を寄せて、今回8回目のモンゴル訪問を終え帰国の途についた。

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    出典:「セルベ川が危険な洪水水位を超えて氾濫」(https://updown.mn/208809.html)
    【参考文献】
    「『賄賂タウン:アクアガーデン』の建設が続く」https://ikon.mn/n/3208、2024年1月17日、閲覧日:2023年12月10日
    「洪水の教訓と解決策について話し合う」http://www.olloo.mn/n/91027.html、2023年10月27日、閲覧日:2023年11月28日
    「洪水による不動産価格の下落」https://news.mn/r/2663389/、2023年7月26日、閲覧日:2023年8月6日
    「セルベ川が危険な洪水水位を超えて氾濫」https://updown.mn/208809.html 、2023年7月5日、閲覧日:2023年8月20日
    「新技能実習制度について」(2024年2月27日掲載)
    社会システム研究所長 中川淳司
    政府は2024年2月5日、技能実習に代わる新制度の方針案を自民党の外国人労働者等特別委員会に示し、了承を得た。関係閣僚会議の決定を経て、今国会への関連法案の提出を目指すという。

    新制度の柱は、技能実習に代わって設ける育成就労制度である。技能実習制度では3年で帰国が前提であった。育成就労では技能実習と同じく3年間の就労を認め、その間により技能レベルの高い特定技能1号の水準に育成することを目指す。特定技能1号を経て熟練労働者である特定技能2号になれば期間の制限なく在留資格を更新することができ、家族帯同も可能となる。

    新制度のもう一つの目玉は、育成就労期間中の転職を認めることである。技能実習制度では原則として3年間転職を認めていない。新制度を議論した政府の有識者会議が2023年秋にまとめた報告書は、同じ企業で1年就労すれば転職を認めるとしていた。これに対して、自民党の外国人労働者等特別委員会で異論が出た。本人の希望で転職できるようにすると、地方に留まる人材がいなくなる恐れがあるとの指摘である。この指摘を受けて、今回の方針案は、転職制限の期間を1年とすることを目標としながら、当分の間は最長2年まで許容するとした。転職に当たっては、日本語能力A2相当(日常生活の情報交換が可能)までの範囲を含む新たな試験の導入を検討する。

    技能実習制度が1993年にスタートしてから30年が経つ。少子高齢化で働き手の減少が続く日本の社会にとって、技能実習生は不可欠の労働力として定着した。当初は3年間の技能実習を終えれば帰国することが前提とされていたが、2019年に特定技能制度が始まり、技能実習修了後に特定技能1号として5年の在留が認められることになった。2023年には在留資格の更新が認められる特定技能2号の対象職種が拡大された。今回の新制度の導入で、育成就労を特定技能の前段階の育成期間と位置付け、外国人が日本で長期に就労・定着する筋道が付けられたといえる。

    技能実習制度が期間中の転職を認めてこなかったことに対しては、技能実習生の人権保障の見地から批判があった。新制度が1年から2年で転職可能としたことは制度の改善と評価できる。しかし、この制度の持続可能性については疑問なしとしない。

    少子高齢化が進む日本は、貴重な労働力として外国人労働者の受入れを着実に増やしていくことが必要である。しかし、少子高齢化は日本だけでなくアジア各国が直面する課題である。外国人労働者を必要とする国はこれから増加し、日本は今以上に外国人労働者の受入れ競争にさらされることになる。技能実習生を送り出している新興国の賃金水準は上がり、受入れ国としての日本の相対的な魅力は弱まっていく。日本が外国人労働者に選ばれる国としてあり続けるために、日本の魅力を磨いていかなければならない。受入れ事業者は、育成就労の賃金水準の引上げ、育成就労期間中の日本語能力向上の支援等、育成期間中の待遇の充実につながる方策に取り組むことが必要である。地域社会は増加する外国人労働者との共生に向けて何ができるかを考えなければならない。

    5年後、そして10年後も日本は外国人労働者に選ばれる国であり続けているだろうか?
    「外国人が教える日本語教室「ESPERANZA」に参加して」(2024年2月5日掲載)
    共愛学園前橋国際大学国際コース准教授 西舘 崇
    昨年の12月上旬、学生たちと一緒に外国人が教える日本語教室「ESPERANZA」(※1)へ足を運んだ。会場は群馬県伊勢崎市内の公共施設で、時間は夜7時から9時までである。教室はNPO法人Gコミュニティ(代表:本堂晴生)が2016年から始めたもので(※2)、コロナ禍では一時休止せざるを得なかったものの、現在では週一回、土曜日の夜に開かれている。

    日本語教室と聞くと、おそらくほとんどの人が、日本人教師が日本語を教える場面を思い浮かべるだろう。実際、一般的な日本語教室では、日本人が教師であることの方が圧倒的に多い。しかし、この教室では外国人が日本語教師となる。筆者は率直に斬新だと思ったが、その意義や目指すべき方向性を知るほどに、大きな可能性を秘めた日本語教室だと思うようになった(※3)。

    Gコミュニティ代表の本堂さんは外国人が教師になる意義を次のように指摘する。「日本在住歴が長く、日本語や社会制度を苦労しながら学んできた外国人が日本語を教えるので、日本語の知識がなくとも、初歩から始める場合であっても、どこが難しいかがよくわかる」。まさにその通りであろう。ただ、外国人にも日本語の習熟度がある。その場合はどうするのか。同NPOのHPには、日本語のレベルに応じて一緒に活動する日本人が教師になると書かれてあった(※4)。細やかな設計だと感じた。

    この試みはさらに、地域における日本語教室のあり方にも一石を投じている。筆者の知る限り、東京などの大都市圏は除き、地方都市での日本語教室は多くの場合、日本人ボランティアに頼らざるを得ない状況が続いている。しかし、これからさらに増えていくであろう外国人材自らが、先輩外国人となり、後輩外国人に日本語を教えていく仕組みが全国各地で実現していったらどうだろう。日本語教育環境の改善に向けた一つの有効な手立てになるのではなかろうか。なお、ボランティアとはいえ、この教室では誰もがボランティアになれるわけではなく、Gコミュニティでは県の助成を受けながら「外国人日本語学習支援ボランティア養成講座」を実施している。40時間みっちり学ぶプログラムであり、22年度は7名が、21年度は10名が修了したようだ。少数精鋭だが外国人の日本語教師が毎年確実に誕生している(※5)。

    また、ボランティア講師に対しては、ボランティアとはいえ有償とし、受講者からは1回(2時間)500円と半年分のコピー代など500円を徴収しているという。完全に無料ではなく、ボランティアも無償ではない教室のあり方は、同NPOが目指す「助成金に頼らなくてもやっていけるモデル」(※6)を実現する上で重要だと思う。

    さて、前置きが少し長くなったが、実際の教室の様子である。今回お世話になった日本語教師は、ブラジルから群馬県に移住して30年、八木節とラテン楽器が趣味だという若林スエリさんであったが(※7)、学生たちは会場に入るや否や戸惑ったと思う。現場を ‘観察’ するつもりで行ったのに、若林さんに挨拶するや「はいはい、あなたはあそこの生徒が担当ね」「はい、あなたのこの生徒に教えてあげてね」などと、担当する生徒が決まり、観察者どころか ‘先生’ になってしまったからだ。大学で学んだことを踏まえながら、現場を観察しようなどと、甘い期待は一瞬で吹き飛んだと思う。学生たちはその後、19時から21時までの2時間、ぶっ通しで日本語教師となった。

    ああ、現場とはこういうものなのだと痛感した。伊勢崎市は現在、群馬県でもっとも多い14,045人(2022年12月末)の外国人が暮らしている。前年と比べると640人増である。今後も増えていく外国人県民に対し、日本語を学ぶ機会も、日本語教師の数もまだまだ不足していると思われる。外国人が教える日本語教室「ESPERANZA」の試みを引き続き応援しつつも、学生たちには机上ではなく、やはり現場に一緒に行き、具体的な体験をさせたいなと改めて感じた。

    ※1  ESPERANZAはスペイン語で希望という意味。
    ※2  同会の活動については、内閣府NPOポータルサイト「特定非営利活動法人 Gコミュニティ」(https://www.npo-homepage.go.jp/npoportal/detail/010001135)や同NPOの公式HP(https://jp-ed-gcommunity.jimdofree.com/)を参照。
    ※3  上毛新聞「母語使い意思疎通 社会制度や文化も指導 『外国人が教える日本語教室』 伊勢崎、太田で好評」(2017年1月22日付)などを参照。
    ※4  前出、Gコミュニティ公式HPを参照。
    ※5  同上
    ※6  同上
    ※7  対談「地域多文化共生を目指す~外国語 で日本語を教えることを通して」(ゲスト講師:若林スエリ)第三回国際コースと地域連携シリーズ(2017年6月13日開催)共愛学園前橋国際大学、における対談記録などを参照。
    「新しい民主主義のカタチと外国人」(2024年1月9日掲載)
    中央学院大学 社会システム研究所教授 福嶋 浩彦
    ●対話こそ民主主義
    「あれもこれも」実現しようとした右肩上がりの時代は、同じ意見、同じの要望の人がそれぞれ集まって数の多さと声の大きさを競い合い、行政を動かした。そして多くの無駄と借金を生み出した。しかし、これからの人口減少時代は、「あれかこれか」の適切な選択と創意工夫が求められる。そのためには、多様な人が集まって対話し、知恵を出し合う民主主義が必要だ。
    対話は討論と違って、自分の意見を変えず相手を変えるのが目的ではない。自分の意見も相手の意見も互いに変化し深まっていく、というのが目的だ。最後に意思決定が必要な場合は当然、多数決になる。多数決は民主主義の大切な道具だ。ただしそれは道具であり、民主主義の本質は対話なのである。

    ●自分ごと化会議
    多様な市民が対話する方法の一つとして注目されるのが、無作為抽出の市民による会議だ。「ミニパブリックス」「くじ引き民主主義」「討議型世論調査」などと呼ばれ、世界で広がっている。日本でも様々な実践があるが、シンクタンク構想日本がサポートする「自分ごと化会議」は、昨年度(2022年度)までに全国80自治体で180回実施された。無作為抽出した27万人に案内状を送り、その中から参加してくれた人は1万人を超えている。
    無作為抽出による会議の最大の特徴は、地域で特に活動したり、大きな声で発言したりしていない「普通の市民」が中心になって対話をすることだ。そして、とても深くて面白い話し合いになることが多い。これは新しい民主主義のカタチだが、本来の民主主義の姿とも言えるのではないだろうか。
    自分のまちにある原子力発電所など、社会的に意見が対立する課題では、一般的に市民を賛成、反対、無関心の3つに分けがちだ。しかし実際には、賛成、反対の決まった立場は持たなくても、出来るだけ正確な情報を得て、他の人の意見も聴き、自分なりに考えたいという真ん中の人たちがたくさんいる。真ん中というのは100人いれば100の立場があるが、この人たちが中心になり賛成、反対の両端の人を巻き込んで議論してこそ、平行線にならず社会的な合意が生まれる可能性がある。無作為抽出の市民による会議は、まさにそんな場になる。
    地域にある原発の稼働を認めるにしても認めないにしても、様々な市民と行政、電力会社が信頼関係を作り、話し合った結果であることが重要だと考える。人間が出す結論である以上、完璧なものはない。後になってその結論に問題があると分かった場合、信頼関係の下で話し合った結論なら、より良く修正するため、また皆で知恵を出し合える。しかし、両端が闘って相手を打ち負かした結果の結論なら、勝者は何としても結論を守ろうとするだろう。問題があったことを認めると、今度は自分が敗者になってしまうからだ。
    信頼関係に基づいた対話による、見直し可能な柔らかい社会決定こそ、原発問題に限らず、人口減少時代の私たちの社会を安全で豊かなものにするはずだ。

    ●外国人の参加
    この無作為抽出による新たな(本来の)民主主義づくりへ、地域に住む外国人にも参加して欲しい。住民基本台帳から無作為抽出した場合、外国人も対象になり、自分ごと化会議で実際に抽出されたケースもあるが、参加した実例はまだない。
    しかし、「多様な市民」の中には当然、地域で暮らす外国人も入る。対話に外国人が参加することによって、外国人が暮らしやすい地域にもなるし、地域の課題解決への有効な知恵やアイディアが出てくることも期待できるだろう。
    「北海道東川町を訪問して」(2023年12月4日掲載)
    一般社団法人 日本グローバルイニシアティブ協会 綿貫 雅一
    寒露を迎える10月3日から5日まで、グローカル・デザイン研究会の第ニ期対象地方自治体の一つである北海道東川町を訪問することができた。この三日間にわたって、行政や関連団体・民間企業を訪問し、ヒヤリングや意見交換を行ってきたので、簡単にその概要を説明したい。

    東川町との繋がりは、2017年2月、東京ミッドタウンで開催されていた東京ミッドタウン・デザインハブ(主催)第63回企画展「地域×デザイン2017 -まちが魅えるプロジェクト-」でのイベントである。地域デザイン10プロジェクトの一つとして、『地域と世界を繋ぎ新たなアイディアを町にもたらす「写真のまち」』のタイトルで、北海道東川町が展示紹介されていた。

    当時の松岡町長ほか職員の方が、その活動を熱心に紹介されており、大変斬新で画期的な取組みであるとの記憶であった。また松岡町長とも色々とお話しご面識を頂き、そのご縁から奇遇にも今日に繋がった次第である。
    今回の訪問に際し、事前にかなりの情報を収集し、東川町の概要はある程度把握していた。本物を追求する「東川スタイル」というユニークな考え方に基づき、外国人も多く国内では珍しいダイバーシティー性の高い町である。また一般的には、あまり耳慣れしないが「適疎」という概念のもと、町づくりを推進している、等である。このような事前の情報を踏まえ、果たして実態はどの様なのか、何がその要因であり、他の地方自治への展開は可能なのだろうか、などの疑問と関心を持っての訪問であった。

    東川町訪問①

    東川町役場訪問:菊池町長ほか
    さて東川町は、北海道のほぼ中央に位置し、地域拠点都市旭川市まで約13km、旭川空港までは約7kmの極めてアクセスのいい地域に立地している。雄大な大雪山旭岳が東にそびえ、その山麓に位置し、美しい自然環境と豊かな観光資源に恵まれ、米作農業と木工業が盛んな人口8,600人の町である。

    近年、人口減少と少子高齢化が急速に進み、地方自治体の存続が危惧されるなか、町民人口が増加し、地方自治体としては極めてユニークで斬新的な取組み行っているのが東川町である。その代表的な事例が、世界でも例のない「写真の町・東川町」である。今日では、「国際写真フェスティバル」「全国高等学校写真選手権大会」「高校生国際交流写真フェスティバル」などを開催し、アジアを中心に世界21ヶ国が参加している。

    東川町訪問⑦

    初冠雪した北海道の最高峰、大雪山系・旭岳
    更に、全国初の公立「東川日本語学校」を設立し、地域の活性化を図っている。韓国、中国、台湾、ベトナム、タイ、インドネシア、などアジア地域からの留学生が大半を占めている。留学生には、手厚い奨学金に加え、学生寮が完備している。また介護福祉や医療福祉の学科を持つ学校法人北工学園「旭川福祉専門学校」があり、アジアを中心に多くの留学生を受入れ、域内は元より道内への人材を供給している。

    その他にも,ひがしかわ株主制度、地域通貨、移住体験、多文化共生・海外交流、KAGUコンペなど、全国で例を見ない施策を次から次へ実施している先進的な取組をしている。

    1980年代、人口減少に直面し、町を如何に存続するかという危機感から、行政が中心となり取組みが開始した経緯を持つとのことである。今日では、行政、企業、町民が有機的に繋がり、町全体が正に一体となって、「適疎」という概念のもと、住民のウェルネス向上に向けたまちづくりを推進している。東川町の気概、そして共通理念である「東川スタイル」の本質に触れることができたと感じている。

    このように東川町は、将来を見据え地域創生の視点に立ち、全国に先駆けグローカルを実践している先進的な町である。

    東川町訪問②

    学校法人北工学園「旭川福祉専門学校」にて

    せんとぴゅあ(東川複合交流施設)

    東川町訪問③

    せんとぴゅあ施設全景

    東川町訪問④

    木工細工展示室

    東川町訪問⑧

     図書閲覧室
    「日本で技能実習生として働く選択をしたモンゴルの若者たち」(2023年9月29日掲載)
    中央学院大学 現代教養学部長/教授 佐藤寛
    2023年の8月にモンゴルを訪れ、日本で技能実習生として仕事をするために日本語を勉強しているモンゴルの若者たちに、日本の社会事情について話す機会があった。
    日本にモンゴルの若者たちが来て、日本企業の技術を学んで、母国の産業、経済発展に活かすことが素晴らしいことである。
    モンゴルにおける技能実習生とはどんな制度なのか。モンゴルの労働社会福祉省のサイトに記載されている情報をみると、「2021年5月現在、技能実習生を派遣する特別な許可を有する団体は全国に74団体ある。18歳以上で、日本で技能実習する現場に関するある程度の実務経験、一定レベルの日本語能力があれば、日本に技能実習生を派遣する特別な許可を有する団体に与える。送出機関は基準を満たした者を候補者として選考し、そして日本企業が面接を行い、採用が決定される」注1)という流れになっている。
    これまで、どれぐらいのモンゴルの若者が日本の企業に派遣されたのか。統計データを検索してみると、若干古いデータになるが、「2016年6月末現在、900名を派遣されている」注2)という。それ以来、コロナ禍時を除けば毎年派遣される若者の数が増え続けているのが現状である。
     

    X日本で技能実習生として働く選択をしたモンゴルの若者たち_01

    ウランバートル市内の日本語学校にて
    8月10日にウランバートル市内の日本語学校で、日本社会の事情として、「命=いのち」をテーマに90分間話を行った。一つ目は日本の「暑さ」である。モンゴル人は極寒での生活には生まれた時から十分なほどの体験をしている。しかし、自分の体温より暑い気温での生活は彼らには経験がない。暑さによって熱中症や脱水症などの病に罹患して命を落とすこともある。次に「台風」である。台風の経験がなく、風速30~50メートル、時には瞬間風速70メートルを超える事もある。屋根や看板が風によって吹き飛ばされ、また町の並木も倒木する。大雨による河川の氾濫、道路の水没、公共の交通機関の乱れなどの障害がおこる。今夏、ウランバートル市内を流れる河川が大雨によって大被害もたらした経験から、この話には全員うなずいていた。最後に「地震」は、地面や建物が揺れることは想像していても経験がない。地震の説明はしたが理解していないようであった。しかし、インターネットの情報などで東日本大震災の事は全員知っていた。
    以上、「命」をテーマに未だ経験のない異国で、自然災害から身を守る例として、話を行った。実習生たちは希望に満ちた輝きの目でいっぱいであったが話を聞いて不安な様子の実習生もいたが、質問の回答により笑顔が戻ったことが、特に印象的であった。

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    熱心に話を聞く日本語学校の生徒たち
    筆者が訪れた送出機関の社長は日本の大学に留学した経験のあり、流暢に日本語を扱える女性で、日本語の教師も務めている。社長の話によると、日本で技能実習生として3年間ないし5年間就労した後、一定の条件を満たすと特定技能に移行することができるので、日本を選ぶ若者が今後増える見込みがある。同社は、日本人の働き方やマナー、勤勉さを身に付ける、学んだことを活かして日本とモンゴルの交流や母国の発展に寄与できる人材を
    育成することを目指している。技能実習だけでなく、貴重な人生経験を積み、一人の人間として成長して帰国する技能実習生が多いので、この仕事はとてもやりがいを感じているという。
    今回、受講した技能実習生たちは、今秋または来春には日本のどこかで技能実習生として活躍し、そして、将来の日本とモンゴルの懸け橋になることを大いに期待したい。

    X日本で技能実習生として働く選択をしたモンゴルの若者たち_02

    受講した生徒と一緒に記念撮影
    注1)モンゴル国労働社会福祉省ホームページ「海外への労働力派遣について」https://mlsp.gov.mn/content/detail/1055(更新:2022-09-15)(アクセス:2023-09-23)
    注2) VIP76「技能実習生プログラムを日本政府機関と連携して実施する」2017年12月26日https://vip76.mn/content/49805(アクセス:2023-09-23)
    「日本の焼酎はなぜ海外で売れないのか?(後編)」(2023年8月22日掲載)
    社会システム研究所長・現代教養学部教授 中川 淳司
    2023年1月末に本ホームページに「日本の焼酎はなぜ海外で売れないのか?(前編)を掲載した。世界的な日本食ブーム、日本産ウイスキーの国際的な高評価などを背景として日本酒、ウイスキーなど日本産酒類の輸出が順調に伸びている中で、焼酎の輸出が伸び悩んでいることを指摘した。そして、焼酎の輸出増加に向けた蔵元をはじめとする業界の取組み課題を述べた。ただし、業界の取組みだけでは焼酎の輸出増加を達成することは難しい。それは、焼酎の輸出には輸出先国の税制などが参入障壁となっているケースがあるためである。これを改めるには日本政府が相手国政府に対して働きかけることが必要である。本エッセイはこの問題を論じる。

    多くの国はアルコール飲料に対して内国税として酒税を課している。日本から輸出される焼酎に対しては、輸入品に課される関税と並んで酒税が課されることになる。日本は多くの国と経済連携協定(EPA)を締結し、関税の撤廃・引下げを実現してきた。焼酎も例外ではない。例えば、日本とASEAN他15カ国が参加する東アジア地域包括的経済連携協定(RCEP)に基づいて、中国や韓国は日本産のアルコール飲料に対する関税を撤廃した。日本とEUとの経済連携協定に基づいて、EUは清酒に対する1リットル当たり0.077ユーロの関税を撤廃した。ただし、焼酎はそれ以前から無税とされていた。

    無税で輸入された焼酎に対して、輸入国の内国税である酒税が課されることになるが、問題はその税率である。例えば、フランスの場合、アルコール度数15%以上の焼酎はスピリッツ(boisson spiritueuse)に分類され、1リットル当たり17.3756ユーロ(約2,780円)の酒税が課される。1.8リットルでは5,004円となる。1.8リットルの原価1,500円程度の焼酎に対して、酒税を付加された後の輸入原価は6,504円となる。これに20%の付加価値税が追加されるので7,806円、日本からの輸送コスト、フランス国内の流通マージン等を20%と想定すると、販売価格は9,000円(56.25ユーロ)を優に超える。原価の6倍以上の高級酒ということになってしまう。これでは焼酎の輸出増はとうてい期待できない。同様に効率の酒税を蒸留酒に適用している国として、インドネシアが挙げられる。飲食店で飲むと、いいちこ(麦焼酎)4合瓶1本が日本での販売価格の10倍近い7,000円くらいするとの情報がある。他方で、バリ島産の焼酎(アラック)ははるかに安い価格で売られているとの情報がインドネシア在留の日本人のブログで得られた。

    同じ蒸留酒でも、日本から輸入された焼酎とフランス産の蒸留酒で異なる税率が適用されていれば、輸入品と国産品を同等に扱うガットの内国民待遇原則に違反する。現に、日本はかつて、輸入品が多いウイスキーやウォッカなどの蒸留酒と大半が国産品である焼酎に対して後者により低い酒税率を適用しており、これを不服としたEUからのWTO提訴を受けて、内国民待遇原則違反が認定され、輸入の蒸留酒と国産蒸留酒を同等に扱う酒税法の改正を行った。インドネシアのケースはこれに該当する疑いがある。他方で、フランスの酒税は輸入品、国産品を問わず、アルコール度数に応じて一律の税率が適用されるため、ガットの内国民待遇原則に違反するとは言えない。

    酒税に加えて、フランスを含むEU加盟国は容量サイズの規制を課している。蒸留酒飲料に区分される焼酎、梅酒に関しては、容量100~2000mlの間で、以下の9種類の容量のみが可能となる。
    100ml、200ml、350ml、500ml、700ml、1,000ml、1,500ml、1,750ml、2,000ml

    日本で通常製造・流通している焼酎の容量は300ml、760ml(4合)か1.8リットル(1升)であるから、フランスに輸出するには輸出向けに上記のいずれかの容量の容器を別途用意しなければならない。これもコスト増につながる。

    焼酎の輸出増に向けて業界が取り組むべきことは多いが、酒税や容量規制による高コストの現状が変わらない限り、焼酎輸出の増加は望めない。日本政府としては、醸造酒と比べて格段に高い酒税率を焼酎に適用しているフランスに対して、酒税率の引下げを粘り強く求めることが必要である。合理性を欠く容量サイズの規制の改正を求めていくことも大切である。フランスの日本料理店・居酒屋でも日本の居酒屋と同じように、焼酎のお湯割りやサワー、ロックを楽しみながら日本料理に舌鼓を打つことができるようになればと思う。
    「子育て支援は少子化対策ではない」(2023年7月6日掲載)
    中央学院大学 社会システム研究所教授 福嶋 浩彦
    ・子育て支援は、出生増につながらない
    2022年に生まれた赤ちゃんはついに80万人を切り77万1千人になった。国は「異次元の少子化対策」を掲げ、子育て支援の大幅な充実を打ち出そうとしているが、出生数の減に歯止めがかかるのだろうか。

    出生数の減の要因は、子どもを産む世代の女性の人口減であることは明らかだ。たしかに合計特殊出生率も、2022年は1.26で2005年と並び過去最低である。しかし、2005年は同じ出生率でも106万7千人の赤ちゃんが生まれている。産む世代の人口が今より多いからだ。

    子どもを産む世代の人口減は、団塊の世代が生まれた第1次ベビーブーム、団塊の世代ジュニアが生まれた第2次ベビーブームに続く第3次ベビーブームが1990年代に起こらなかったことで、すでに確定している。子育て支援でこの構造は変えられない。
    また、この出生率は未婚の女性も含めたものだ。近年は、既婚の女性が持つ子どもの数はさほど変化していないが、未婚の増加や晩婚化が進んで出生率は下がっている。子育て支援で結婚が促進されるとは考えにくい。

    現代教養学部 福嶋先生 グローカルデザイン

    (国立社会保障・人口問題研究所2023年推計より)
    以上から、「異次元の子育て支援」をしても「異次元の少子化対策」にはならないことが分かる。国立社会保障・人口問題研究所の推計をみても、これから50年は確実に人口が減る。なお、前回推計(2017年)より人口減が緩和しているのは、外国人の増による。

    ・子育て支援は、私たちの幸せのため
    子育て支援(子育ち・子育て支援)はとても大切だ。 子どもが欲しいと思ったら安心して産めて、子どもが健やかに育つ社会は、何よりも大事だ。私も我孫子市長時代、最優先のテーマとして必死で取り組んだ。
    我孫子市は首都圏の中で保育園の待機児童をゼロにしていて、2000年代は待機児童があふれる周辺自治体から、「どうしても保育園に入りたい」と転入してくる人も目立った。

    もちろん保育園だけではなく、「我孫子市が千葉県でいちばん子育て支援が進んでいる」と言っても、当時、誰からも文句を言われなかったと思う。しかしそれは、私たちが幸せに生きるために取り組んだのであって、出生数や出生率の数字を上げるためではない。

    実際、子育て支援が非常に充実している自治体の出生率が高いとは限らない。低い自治体さえある。出生率が上がるのは、充実した子育て支援にひかれ、すでに子どもを持つ親や、これから産む予定の人が多く移住してきた場合だ。その分、他の自治体の出生率が下がる。


    ・子育て支援=少子化対策がもたらす歪み
    子育て支援を少子化対策と結びつけるのは、根拠がないだけではなく、「子育てを支援してあげるから、女性は国のため、社会のため子どもを産んで」という発想とつながりかねない。そんな子育て支援はどこか歪むし、成功しない。子ども政策には、ジェンダー平等がきわめて重要である。

    歴史を大きく見て言えば、少子化が進んだのは社会の進歩だと考える。 一昔前は、女性は30歳が近づくと「まだお嫁に行けないのか」と言われ、結婚して子どもがないと「跡継ぎを産めないのか」と言われた。 つまり、結婚・出産が、社会や周囲からの強制だった。
    今日、この強制が完全に無くなったわけではないが、たいぶ個人の選択になった。強制から選択になれば、減るのは当たり前だろう。文化人類学者に聞くと、世界史的に見て、女性の権利が認められる社会になると、出生率は減るそうだ。

    人口減少が不可避である以上、人口減少してもみんなが幸せになれる持続可能な社会を作らねばならない。これについて私は様々なところで話したり、書いたりしてきたが、「社会をうまく小さくして質を高める」をいう視点で、社会の仕組みを変えていきたい。
    また、わが国は外国人移住者をより多く受け入れていくのか、いかないのか。これも大きなテーマだ。私たちは、地域社会のパートナーとして外国人と本気で共生していけるのか、正面からみんなで議論していく必要がある。

    「異次元の少子化対策」という幻想が、この二つの重要な課題を先送りする要因になってしまうなら、それは私たちの未来にとって取り返しのつかないマイナスになるだろう。
    「海外からの地方再生・地元支援の取組み」(2023年5月31日掲載)
    一般社団法人 日本グローバルイニシアティブ協会 綿貫 雅一
    今回は、在米歴20年に及び、海外から地域創生や地元支援を実践しているロサンゼルス在住で南加(ロス)栃木県人会役員の田崎敏弘氏を紹介したい。田崎氏とはDC繋がりで、また同じ栃木県出身でもあることから、お互いに共通の認識のもと、親しく交友を重ねている。この5月には、3年ぶりに一時帰国され、県行政や関係機関、またビジネスセクターとも精力的に意見交換をして、情報収集に努め渡米されている。

    先ず簡単に田崎氏の略歴を紹介したい。田崎氏は宇都宮市出身で、異色のキャリアパスの経歴を持つ国際派で、また実践的主義を貫ぬくエキスパートである。

    大学卒業後に建設省(現国土交通省)に入省し、筑波への配属を契機に国際協力・国際交流に関心を持つが、霞ヶ関での勤務後退職し渡米。カリフォルニア州立大学大学院フレズノ校で、国際関係学の修士号取得し、米国で活躍することを決意。

    写真① 栃木県農畜産物の米国市場PRの様子

    栃木県農畜産物の米国市場PRの様子(写真右)
    食の展示会:ラスベガス(2022年1月)
    ワシントンDCに10年居住し、現地日系シンクタンク・調査コンサルティング会社に勤務し、その後LAを拠点に活動。米国政治・市場トレンド(主にエネルギー分野)の分析を専門とする政策アナリスト・市場調査コンサルタントである。
    上記の本業に加え、地方創生・活性化への関わりや背景、そして近年の活動について、田崎氏の言葉を借りて紹介したい。先ず将来の日本に対する強い危機感である。世界の先進国・新興国は過去着実に成長しているが、それとは対照的に、90年代以降、経済成長が鈍化し、社会のダイナミズムが大きく後退している日本の姿である。長期海外在住者である田崎氏にとって、人口減少に加え少子高齢化が進む日本の将来に、強い危機感を持つに至ったとのことである。特に地方は人口減少が顕著であり、生まれ育った故郷・栃木も例外ではないことを痛感する。このような状況を踏まえ、海外在住という「地の利」や海外視点を生かし、海外にいながら地元の活性化を図る取組みをしたいとの強い想いが、活動の原点とのことである。

    先ず第1歩として、出来る限り地元でのニーズや関心に沿った形で活動を行うために、地元ならではの情報収集や地域リーダーと繋がるためにFacebookやTwitterなどのSNSを開設。また同じタイミングで、栃木県庁が米国市場を対象としたPR活動を展開し始めたことから、現地情報の収集・提供や現地ニーズの把握、情報交換等を通じて、行政との繋がりを構築。2019年度から栃木県庁米国県農産物PR事業を手掛けるほか、2021年度に栃木県公認アンバサダーに任命され、米国での栃木のプレゼンス向上に取組む。コロナ禍では、同じ出身県で世界各国に在住する方々や海外・地元に繋がりを持つ人達と繋がるためのオンライン交流会を定期的に開催し、これまで弱かった「横」の繋がりを強化するネットワークの構築も進めてきた。
    様々な国・地域の在住者・在住経験者が参加したオンライン交流会では、「栃木の海外への挑戦を応援」や「栃木のグローバル化支援」などに関与してきた。主な取組みは、以下の通りである。

    様々な国・地域の在住者・在住経験者が参加したオンライン交流会では、「栃木の海外への挑戦を応援」や「栃木のグローバル化支援」などに関与してきた。主な取組みは、以下の通りである。

    「しもつかれビスコッティオンライン同時試食会」:1200年以上の歴史を誇るが、見た目や味を毛嫌いする県民も少なくない栃木県の伝統食「しもつかれ」である。地元での歴史的価値の再認識や海外での認知度を上げるために、アレンジ料理である「しもつかれビスコッティ」をオンライン開催。試食のほか、現地在住国によるテストマーケティングを行った。

    「県出身者によるオンライン講座」:地方のグローバル化やダイバーシティ化には、子供の頃からの啓蒙が必須となる。なかなか海外と接点がない栃木県の小中学生に対して新たな「気づき」の場を与えるために、地元小中学校を対象として県出身者によるオンライン講座をこれまで数回開催。第1回目は栃木市国府南小学校にて「グローバルキャリア」をテーマに、米国・ロサンゼルス、セネガルの在住者がオンライン講演を行った。

    写真⑤

    写真④

    「大谷石オンライン講座」:地元特産品・大谷石の米国での認知度向上と地元での価値の見直しを図るために、米アリゾナ州に拠点を置くフランクロイドライト財団と共同で大谷石をテーマにしたオンライン講座を開催。ライト氏は大谷石を使って旧帝国ホテル(1923年に開業)を設計した近代建築の巨匠の一人で、米国での知名度はとても高い。ライト財団側及び栃木県側からそれぞれゲストスピーカーを招聘し、ライト氏と大谷石との出逢い、旧帝国ホテルの設計に大谷石を採用した理由など、日米双方の視点から大谷石とライト氏との知られざる事実を紐解いた。ライト財団の加盟メンバー(主に米国人)から350名を超える参加申込があったほか、講演では参加者から多数の質問が出るなど、米国人による大谷石の関心の高さが伺えた。米国人への大谷石に対する関心を高めることができた。

    写真③

    写真②s

    以上の様に、田崎氏の活動は、多くの自治体が抱える喫緊の課題に対し、グローカルの視点から、極めて有効な施策を与えるものである。地方の自治体にとって、少子高齢化や人口流出は今後さらに深刻化し、地域経済や社会に及ぼす影響は図り知れない。国内発あるいは地域発の取組みも重要ではあるが、田崎氏の様に海外視点・目線で海外から地域活性化を支援することも、大変有効な取組であると、再確認させられた思いである。

    地元栃木県には、世界文化遺産に登録されている「日光の寺社仏閣」、世界無形文化遺産「結城紬」、ラムサール条約湿地「奥日光の湿原・渡良瀬遊水地」に加え、関東随一の源泉数を誇る1200年の歴史を持つ由緒ある温泉郷が幾つもある。将来、地域活性の有力な起爆剤の一つに、富裕層のインバウンド観光が挙げられる。県でもこの取組を本格的に進めており、田崎氏は色々なネットワークとチャンネルを使い、積極的に参画している。日本に対する共通認識のもと、これまで培ってきたグローカル研究会の知見を活用して、田崎氏との連携・協力のもと、地方を盛り上げる活動を進めて行きたいと考える。
    古利根沼を訪ねて(2023年5月31日掲載)
    中央学院大学 現代教養学部教授 林 健一
    ゴールデンウイークの前半、少し研究室で仕事をしてくると家族に言い残しながらも、その足は大学入口を過ぎ、以前から訪れたかった我孫子市中峠の古利根沼(ふるとねぬま)に向かっていた。

    手賀沼と利根川に囲まれた我孫子市は、水の恵みと被害を受けてきた。特に、利根川は、しばしば氾濫をくり返し、長年の間、人々は水害に苦しめられてきた。現在の利根川は、水害克服のため近代の大改修を経ており、昔の面影は残っていない中にあり、古利根沼は、ありし日の利根川の景観を今にとどめている貴重な水辺空間となっている。

    改修前の利根川は、我孫子市青山地区から湖北地区の根古屋にかけ、南側へ大きく迂回して流下し、しばしば堤防が切れ、大きな水の被害をもたらしている。このため、明治末期に着工された利根川改修工事により、河道を直線に改めた結果、蛇行した利根川が取り残され、沼となったのが古利根沼である。

    写真① 古利根沼(中峠地内から下流を望む)

    古利根沼(中峠地内から下流を望む)(著者撮影2023.5.1)
    古利根沼は、我孫子市の北端に位置し、沼の北側の水際がほぼ取手市(茨城県)との境界になっている。古利根沼の諸元は、面積約17ha(水面)、東西約1.4km、平均幅約122m(58~188m)、平均湛水量約479,000㎥、最大水深約5.5mである。成田線・湖北駅が最寄り駅となり、同駅から北へ約1.2㎞に位置する。

    沼の東側(写真①)には、中世の利根川を見下ろした「芝原(中峠)城祉」(古利根公園自然観察の森)のある丘陵が続き、斜面の斜面林、大地林に囲まれた三日月湖は、昔の利根川の面影をそのまま残している。また、沼の上流側(写真②)には、我孫子市青山と茨城県取手市新町を結ぶ国道6号線に架かる大利根大橋を望むことが出来る。

    沼の北側には、利根川改修により茨城県取手市の飛地となった小堀(おおほり)集落がある。小堀地区は、江戸期には利根川沿岸屈指の船着場と言われ、水運の基点として栄えた有様が「利根川図志」などに記されている。同地には、水神社(写真③)が残されている。水波能売命(ミズハノメノミコト)を祭る水神社は、1668年(寛文8年)に創立されたとの伝承があり、社殿の左側には古い石塔(写真④)がひっそりと佇んでいる。

    写真② 古利根沼(中峠地内から上流を望む)

    古利根沼(中峠地内から上流を望む)(著者撮影2023.5.1)
    古利根沼は、ブラックバスやヘラブナなど、魚の釣り場として親しまれているが、「沼と人との関わり方」に多くの課題が存在するようである。我孫子市の「古利根沼周辺保全基本計画」(平成17年策定)によれば、ゴミや不法投棄のほか、岸部が少ないため、私物の設置や係留、植物の踏み荒らしなどがみられる。

    また、同計画によれば、近年のCODは10~12mg/Lで推移している。公共下水道整備や水質浄化施設の設置(写真⑤)により、水質は改善されてきてはいる。しかし、沼への流入水量が減少しており、新たな流入水量の確保と水源涵養のための樹林地の保全が必要となっている。このため、旧利根川の面影を残す貴重な自然環境・景観を保全するなど、次世代に継承していくための真剣な取り組みが求められている。

    古利根沼を渡る5月の風はどこまでも心地よく、水辺や周辺の景観を眺めながら散策していると、ついつい時間を忘れてしまっていた。釣り人以外は訪れる人も少なく、アクセスも決して良い場所ではないが、古利根沼は多くの人に知ってもらいたい我孫子市の魅力であり、貴重な地域資源でもある。

    今回紹介できなかったが、数多くの「水のものがたり」を語る地域資源が、我孫子市には多数残されている。時間を見つけて、古利根沼とともにこれらを再訪していきたい。

    写真③ 水神社(取手市小堀地区)

    水神社(取手市小堀地区)(著者撮影2023.5.1)

    写真④ 水神社・社殿左側の石塔

    水神社・社殿左側の石塔(著者撮影2023.5.1)
    右から疱瘡神(寛保元(1741)年)、青面金剛(寛文9(1669)年)

    写真⑤ 我湖(あこ)排水路礫間浄化施設

    我湖(あこ)排水路礫間浄化施設(著者撮影2023.5.1)
    【参考資料】
    • 我孫子市(2015)「古利根沼周辺保全基本計画」
    • 我孫子市ウエブサイト「利根川・古利根沼
    埼玉県の「再生:黒目川」を訪ねて(2023年3月29日掲載)
    中央学院大学 現代教養学部長/教授 佐藤 寛
    私たちの生活に密接な関わりを持つ水問題の中で、河川の再生に取り組む埼玉県の河川再生事業に注目した。
    埼玉県は「川の国 埼玉」としてプロジェクト事業を下記のとおり行ってきたが、本稿では「川まるごと再生プロジェクト」の事業について紹介する。
    • 「水辺再生100プラン」 平成20~23年度
    • 「川まるごと再生プロジェクト」 平成24~27年度
    • 「水辺空間とことん活用プロジェクト」 平成25年度~
    • 「川の国埼玉はつらつプロジェクト」 平成28年度~

    筆者は、これらのプロジェクトの経緯と結果について、2022年12月6日に調査見聞を行った。黒目川は東京の小平市(さいかち窪)を源として埼玉県の新座市と朝霞市を貫流して、下流の新河岸川に合流して荒川へと流れる総延長17.3㎞(うち埼玉県10.7 ㎞)、流域面積37.6㎞2の1級河川であるが、今回の再生プロジェクトは、埼玉県内の新座市と朝霞市で取り組まれたものである。
    〇黒目川まるごと再生プロジェクト
    埼玉県の資料によれば、「埼玉県では川の豊かな環境を再生し、県民誰もが川に愛着を持ち、ふるさとを実感できる『川の国 埼玉』を実現するため、平成20年度から川の再生に取り組んできました。平成24年度からは、これまでのスポット的な川の再生を、市町村のまちづくり事業と連携を図りながら線的、面的に広げ『川まるごと再生』にスッテップアップします。黒目川はまるごと再生プロジェクトは朝霞市、新座市と一体となって平成24年度から4年間で取り組みます」としている。以下、関連資料により再生プロジェクトのアウトラインを素描していく。
    • 対象場所
     黒目川「県管理区間「10.7Km」 朝霞市区間 約5.2km 新座市区間 約5.5km及びその周辺地域
    • 事業期間
     平成24年度から平成27年度の4年間
    • 全体テーマ
     新座市―雑木林とせせらぎのあるまちづくり
     朝霞市―身近な自然とともに暮らせるまちづくり
    • 事業内容
     遊歩道、親水護岸、護岸整備、階段、スロープ、アンダーパス、環境整備

    浜崎黒目川橋

    黒目川:浜崎黒目川橋(著者撮影2022.12.6)
    〇川まるごと再生プロジェクトの特徴
    • 一つの市町村若しくは複数の市町村を流れる川をまもるごと対象に町づくりと一体となり、川再生。
    • 県と市町村事業の連携。
    • 県・市町村地域が協働。

    〇事業の経緯    
    黒目川(新座市・朝霞市)は、平成24年度から着手した「川まるごと再生プロジェクト」の事業個所に選定され、沿川自治会、地元活動団体、新座市、朝霞市、埼玉県からなる「黒目川まるごと再生プロジェクト全体・市部会を設け、みなさんと話し合いながら事業を進めてゆきます。(2013.3)」。

    自然体の黒目川

    自然体の黒目川-生物多様性に配慮した整備(著者撮影2022.12.6)
    〇地域と行政が連携した維持管理
    新座市
    • 「黒目川クリーン作戦」として、中学生、地域の皆さんが河川の美化に努めています。
    • 緑地保全、河川の美化に努める活動をしている地域住民を支援して行きます。
    • 「妙音沢クリ-ンアップ作戦」と銘打ち、市民、企業、行政が一体となって地域内の大掃除をします。
    朝霞市
    • 良好な景観のために活動を行っている地域住民を支援して行きます。
    • 朝霞市は清掃活動を行う地域住民と協働で、整備された遊歩道の維持管理を行います。
    • 団体や地域住民が主体となるよう取組み、総合振興計画の目標の一つであるパートナーシップによるまちづくりを推進します。

    Q:本事業の関係各位との対応?
    A:「黒目川における『水辺再生100プラン』についての初期の資料が【埼玉県県土整備事務所水辺再生課,『埼玉の川の再生』,2019.3】です。この資料は事業を始めるにあたって、100か所もの水辺を再生させるべく、市役所をはじめとした機関が再生のプランについてプレゼンテーションしたものです。」

    Q:本事業の予算対応?
    A:「【埼玉県県土整備事務所水辺再生課、『埼玉の川の再生』,2019.3】が発刊された際『愛県債』がすぐに発行されました。2008年7月30日~8月8日という短い期間であったのですが、億という額を優に超えるような巨額が集まりました。」

    Q:この「川まるごと再生プロジェクト」事業の特徴は?
    A:「黒目川においては4拠点を置くような形で様々な場所を、人々がより過ごしやすいような形に変えてゆきました。

    Q:本事業の主管課はありますか?
    A:「課として変わった部分もあるのですが、そもそもの川の部門が「河川課」しかありませんでした。そのところ「水辺再生課」等が新たに増設された過去があります。しかし、現在においてはこの課はありません。現在は河川課です」

    以上の再生プロジェクト事業によって、水質改善や生物多様性にも大きな変化をもたらしている。例として、黒目川はプロジェクト整備以前においては、水質は生活排水で汚れた河川であったが、現在は生活排水処理率の向上により、BOD環境基準値5mg/L以下となり、アユ(鮎)が棲む河川に戻って市民から喜びの声が上がっている。また、黒目川沿いは、散歩、運動、散策等憩いの場として活用していると説明を受けた。
    今回は埼玉県の河川再生プロジェクト事業を紹介したが、全国の多くの地域においても河川再生に取り組みが見られる。水・河川問題が大きな課題になっている昨今、埼玉県の河川再生プロジェクトは県指導型での推進は意義があるが、我々の身近な河川保全のためにも地域の意見を取り入れながら今後も遂行することを期待したい。
    なお、本調査には埼玉県朝霞県土整備事務所の皆様と「わくわく新河岸川みどりの会」の方には大変貴重な資料やお話をいただき、また、お忙しい中現地案内をしていただいた誠にありがとうございました。
    謹んで御礼申し上げます。

    参考資料:『黒目川丸ごと再生プロジェクト朝霞市、新座市部会における検討の概要』
    発行:埼玉県
    『埼玉の川の再生』発行:埼玉県 県土整備部水辺再生課
    『水辺再生100プラン 49 黒目川/朝霞市浜崎』発行:埼玉県
    日本の焼酎はなぜ海外で売れないのか?(前編)(2023年1月30日掲載)
    社会システム研究所長・現代教養学部教授 中川 淳司
     
    日本産酒類の輸出が順調に伸びている。国税庁の最近の集計によれば、2021年の輸出額は1,147億円(対前年比61.4%増)となり、初めて1,000億円を突破した。2022年1月から11月までの輸出額は1,279億円となり、既に好調だった2021年の輸出額を上回っている。内訳を見ると、ウイスキーと清酒の輸出が特に好調である。2021年はそれぞれ461億円(対前年比70.2%増)、402億円(対前年比66.4%)となり、合わせると同年の日本産酒類の輸出総額の75%強を占めた。2022年1月から11月までの輸出額を見ても、それぞれ524億円(対前年同期比21.3%)、435億円(対前年同期比21.3%)となり、この期間の輸出総額の75%を占めている(右記図表を参照)。

    日本の焼酎はなぜ海外で売れないのか?(前編)01

    (出典:国税庁「最近の日本産酒類の輸出動向について」2022年11月時点。
    日本産ウイスキーは世界各地の品評会での評価が高い。ジャパニーズウイスキーは世界的なブームとなっている。清酒の輸出増加は海外における日本食の広がりと定着の賜物であろう。海外における日本食レストランの数は、2006年の約2.4万店から、2013年には約5.5万店、2015年に約8.9万店、2017年に約11.8万店、2019年に約15.6万店、2021年に約15.9万店と急速に増えた(右図を参照)。

    日本の焼酎はなぜ海外で売れないのか?(前編)02

    (出典:農林水産省輸出・国際局輸出企画課「海外における日本食レストランの数」                               
     令和3年9月30日。
    そこで供される日本食も、かつての「鮨、天ぷら、すき焼き」から、牛丼やラーメンなどのB級グルメはもちろん、高級懐石料理までバラエティに富むようになった。新型コロナウイルス感染症で人流が途絶えるまで続いた海外からの日本旅行(インバウンド)ブームで日本食の魅力を知った外国人旅行者が、帰国してからも日本食を求める需要を創り出したという側面がある。インバウンド旅行客で最も大きな比重を占めるアジアにおける日本食レストランの数が他の地域よりもはるかに多いこと(2021年で約10万店)が、そのことを示している。日本食レストランの増加とともに清酒の海外需要が順調に伸びたと考えられる。その意味で、ウイスキーや清酒の輸出増は決して一過性のものではない。これからも手堅い伸びが期待できる。

    現在、酒類市場は世界全体で100兆円を超える規模があるといわれる。他方で、日本産酒類の輸出額は、近年大きく伸びているものの、世界の酒類市場の0.1%程度に過ぎない。日本産酒類の輸出はまだまだ伸びしろが大きいといえる。

    どうやって輸出を伸ばせばよいか。以下では焼酎を取り上げて、輸出を伸ばす方策を考えてみたい。焼酎の輸出金額は2021年に17.5億円(対前年比45.4%増)、2022年1月から11月に19.8億円(対前年同期比34.8%)であった。対前年比・前年同期比では大きく伸びているが、日本産酒類の輸出総額に占める割合はいずれも約1.5%に留まっている。ウイスキー(2021年に40%)や清酒(2021年に35%)に比べると、焼酎の輸出額の少なさは際立っている。これらの酒類の国内生産量を比較してみると、焼酎の輸出額の少なさは一層際立ってくる。統計数値が公表されている2020年度の国内生産量は、ウイスキー13.5万kl、清酒(合成酒を含む)33.2万klに対して焼酎(本格焼酎、甲類焼酎を含む)は66.2万klである。国内生産量では焼酎はウイスキー・清酒を大きくしのいでいる。なぜ、焼酎の輸出は際立って少ないのだろうか?蒸留酒(スピリッツ)だからだろうか?しかし、世界市場を見れば、テキーラやウォッカ等のスピリッツの輸出は盛んに行われている。

    考えられるのは、知名度が低いこと、中小零細の蔵元が多く、輸出向けマーケティングに十分な投資を行えていないことである。確かに、海外市場においてShochuの知名度は低い。輸出が少ないために知名度が上がらず、知名度が低いために輸出が伸びないという悪循環に陥っている。これをどう変えていくか。それは第一義的には知名度向上と販路拡大に向けた業界の取組みにかかってくる。日本では焼酎はハイボールやお湯割りで、食中酒として飲まれるのが通例である。海外の日本食レストランに、清酒と並ぶ食中酒の選択肢として焼酎を売り込むのが正攻法だろう。その際、普及品価格帯とハイエンドの価格帯を区別し、希少性をうたって後者のマーケティングをしっかり行うことが検討されてよい。それだけではない。スピリッツとしての焼酎の競争相手はテキーラやウォッカということになる。そうであるならば、これらのスピリッツが飲まれるバーをターゲットとして、カクテルのベースとして焼酎を売り込むというマーケティングも考えられる。焼酎ベースのカクテルとして、ハイボールやそのバリエーションを提案していくことが有効かもしれない。米国市場で今をときめくテキーラも、100年前は全く相手にされていなかった。テキーラベースのカクテル、マルガリータが広まったことが、米国でのテキーラの売り上げ増のきっかけとなったと聞く。

    少子高齢化と人口減少が進む日本の国内市場は、今後大きな伸びが期待できない。伸びしろの大きい輸出市場の開拓に向けて焼酎業界が戦略的なマーケティングを展開することが必要な時期に来ている。

    以上、焼酎の輸出増加に向けた蔵元をはじめとする業界の取組み課題を述べた。しかし、それだけでは十分ではない。焼酎の輸出には輸出先国の税制が参入障壁となっているケースがある。これを改めるには日本政府が相手国政府に対して働きかけることが必要である。本件については半年後の筆者担当のエッセイで述べたい。
    地域の歴史を見つめ直す街〜リトアニア共和国カウナスからの報告(2023年1月23日掲載)
    共愛学園前橋国際大学 国際社会学部 准教授 西舘 崇
    現在、大学のサバティカルを取得し、バルト三国の一つであるリトアニア共和国に滞在しています。所属は同国カウナス市にあるヴィータウタス・マグヌス大学(Vytautas Magnus University)のアジア研究センターです。滞在の主な目的は、リトアニアのエネルギー安全保障政策と住民意識についての研究です。ロシアによるウクライナ侵攻が続く中、同テーマの重要性は高まっているように感じます。

    さて、今回の私のエッセーは番外編としてカウナスの様子についてお伝えします。カウナス(Kaunas)は人口約35万人を擁するリトアニア第二の都市であり、歴史的には首都ヴィルニュス(Vilnius)に代わって臨時の首都になったこともあります。写真1はカウナスを代表する歴史的建造物の一つ、カウナス城(14世紀頃に建設)の様子です。

    地域の歴史を見つめ直す街01-1

    写真1:カウナス城の様子(筆者撮影)
    カウナスではまた、第二次大戦中、ナチスドイツの迫害から逃れてきたユダヤ人に対し、日本通過のビザを発給した杉原千畝(ちうね)のことも語り継がれております。写真2は杉原がいたカウナス領事館(現在は杉原千畝記念館)です。2022年は、日本がリトアニアを国家承認した時(1922年12月)からちょうど100年という節目の年であり、リトアニア国内では日リトアニア関係や杉原に関する様々なイベントが行われていました。

    筆者が参加したラウンド・テーブル会合「改めて杉原千畝を語る~リトアニア・日本両国の次世代への平和と人道主義と自由のメッセージとして」(2022年12月15日@リトアニア国立図書館)では、パネリストらが「スギハラを日リトアニア関係のヒーローとか、偉大な外交官などとして描くだけではなく、一人の ‘人間’ として捉えることも大切だ」と議論しておりました。これはとても大切なポイントだと思います。英雄視され、類稀なる外交官として記憶されるほど、杉原は私たちから遠い存在になっていくように感じます。しかし一人の人間が成したこととして彼の功績が後世に伝わることは、私たち一人ひとりにも人権や差別に関わる問題に対して何か出来ることがある、と気づかせてくれると思うのです。

    地域の歴史を見つめ直す街02

    写真2:杉原千畝記念館(筆者撮影)
    カウナスはまた、2022年の欧州文化首都(European Capital of Culture)に選定されたこともあり、年間を通して多くの文化事業を行っています。筆者がカウナスにやってきた10月中旬には、シティー・テリング・フェスティバル(CityTelling Festival)の一環として「歴史の窓:ホロコースト以前のカウナス在住ユダヤ人たちの暮らし」展(Window to Jewish Life in Kaunas before the Holocaust, an exhibition)が市内文化交流センターにて開催されていました。写真3は同展示のポスターで、写真4は展示の様子です。小・中規模の会議室には1930年頃から1940年前後までのユダヤ人社会を物語る品々-例えば写真や記念コイン等のほか、個人の手紙、封筒、領収書、名刺、イベント等の招待状まで-が展示されていました。

    ある関係者によると、近年、ヨーロッパでは自分たちの歴史を見つめ直し、それらを編み直してゆこうとする動きがあるようです。その代表例はナチス・ドイツによるホロコーストです。それは「大虐殺の責任は、はたしてヒトラーやナチスだけに帰せられるものなのだろうか」と問いながら、自分たちもまた加害者側だったのではないかと、自国の歴史を改めて検証する試みにつながっている、とのことでした。

    リトアニアでも当時19万人ほどのユダヤ人が虐殺されたと伝えられています(当時のカウナスには推定で21万人のユダヤ人が住んでいたので、その9割が殺害されたことになります)。聞くところによると、この虐殺に手を貸したリトアニア人も決して少なくないとか。展示会の主催者は、今回の展示の目的を「ホロコーストによって破壊された、カウナスのユダヤ人社会の繁栄を紹介すること」と説明します。自分たちの歴史に正面から向き合おうとする勇気に大きな感銘を受けました。

    地域の歴史を見つめ直す街03

        写真3:展示ポスター(筆者撮影)

    地域の歴史を見つめ直す街04

    写真4:ユダヤ人展の様子(筆者撮影)
    自分たちの地域を見つめ直す試みには、実に多様なアプローチがあるのだと気付かせてくれるものもありました。それが11月下旬から始まった「伝説の獣が隠れる場所」(Hiding Places of the Mythical Beast)と題する野外展示です。

    展示会ではカウナスを代表する十数件の建築物の写真が、その地下の様子まで含めて映し出されております。写真5は展示についての説明、写真6は野外展示の様子、写真7と8は実際の例です。その技法の詳細は主催者曰く「謎のまま」のようですが、この展示を手がけた芸術家チラグ・ゲンダル(Chirag Jindal)氏によると、建築物とは「歴史の層を集めたタイムカプセル」のようなもの、とのこと。そして「神話の中の獣を探すことは、カウナスの物語を探すことと同じ」であり、「これらの地下室の多くは、意図せずして、また博物館化されることを通して、そのままの形で残された。見えない部分を意図的にかつ丁寧に見える化することで、重層的な歴史の証拠が浮き彫りとなる」と語っています。ワクワクするような試みだと思いました。例えば、杉原記念館の様子(写真8)からは、外交官としての杉原の姿だけではなく、杉原一家の暮らしまでも想像できそうです。

    地域の歴史を見つめ直す街05

    写真5:Cultural Info Centre HP(Ihttps://kultura.kaunas.lt/en)より

    地域の歴史を見つめ直す街06

    写真6:野外展示の様子(筆者撮影)

    地域の歴史を見つめ直す街07

    写真7:建築センター(旧中央郵便局)(筆者撮影)

    地域の歴史を見つめ直す街08

    写真8:杉原記念館(筆者撮影)
    カウナスでは、この地域の歴史や文化をその土地の中で、またヨーロッパ全体の中で捉えることの面白さを感じています。その表し方や伝え方についても、グローカルを「デザイン」するという点で参考になる部分があるように思います。
    「インクルーシブ教育」と多文化共生(2022年12月1日掲載)
    中央学院大学社会システム研究所教授  福嶋 浩彦

     出雲市は多くの外国人が市内の企業で働いている。同市の「令和元年度市民満足度調査」の中に、「多くの外国人が暮らしていることにどう感じるか」という問いがあった。市民の回答は、「地域の経済を支える労働力として必要である」が49.4%、「言葉や習慣・文化の違いがあり、コミュニケーションがとりにくく不安である」が43.2%である。これに対し、「同じ地域で生きるパートナーである」という回答は21.6%にとどまっている(複数回答あり)。
     外国人住民は地域経済を支えるためやむを得ない存在だが、私たちの社会に順応してもらえるか不安もある、という意識が多くを占めているように見える。お互いが「同じ地域で生きるパートナー」になる多文化共生はどうしたら進むのだろうか。

     「多文化共生」とは、<日本人>と<外国人>をまず分けたうえで、従来の日本的均一社会の中に外国人が順応して入ってこられるよう支援する、ということではないはずだ。私たちの社会を、外国人だけでなく障がいのある人、性的マイノリティの人、多様な属性を持つあらゆる人を認め合う社会にするということだ。変えるのは外国人ではなく、私たちの社会なのだ。

     今年9月9日、日本が批准している「障害者の権利に関する条約」に基づき、国連の障害者権利委員会から日本政府に勧告が出された。「分離された特別教育をやめるために・・・質の高いインクルーシブ教育に関する具体的目標、スケジュール、十分な予算を含めた国家行動計画を採用すること」など6項目が「強く要請する事項」とされている。

     日本では長い間、障がいのある子は一般の子どもとは別の場で、特別な支援のもと教育を受けるのが良いとされてきた。いまだに特別支援学校や特別支援教室など別の場で学ぶ子どもの数は増えている。しかし本当は、特別な支援は別の場ではなく、同じ場で受けられなくてはならない。
     もちろん、普通学級で特別支援を行う体制が貧弱な現在、現実を無視して同じ場に入ることだけを優先するのが正しいとは思わない。現実の中で、子ども一人一人に合った場を選ぶことが大切だろう。しかし、だからと言って、別の場を選ばざるを得ない現状を正当化して良いとも思わない。

     私が市長を務めた我孫子市では、障がいのある子が普通学級に入るための支援スタッフ配置は、予算の制限をつけないことにしていた。また保育園は、障がいのある子の発達のために集団保育が必要と判断したら、保護者の就労などの入園要件がなくとも受け入れた。これに伴い保育士も増員した。ただ、市立小中学校の教員配置は県が行っており、学校で市が出来ることは限られていた。

     障がいのある子どもとそうでない子どもが同じ場で学ぶインクルーシブ教育について、一般社団法人UNIVA理事の野口晃菜氏は、「障害のある子どもも含め多様な子どもがいることが前提となっているか、既存の学校教育の在り方そのものを見直す必要がある」と提起する。多様な子どもには、「障害のある子どものみではなく、性的マイノリティの子ども、外国にルーツのある子ども、ヤングケアラーの子ども」なども含まれる。
     そして同氏は、文科省の取り組みについて、「『既存の通常の教育を前提とした上で、障害のある子どもにどのような付加的な支援をしていくか』の議論になりやすく、前提となる通常の教育そのものをどう変えていくか、の議論になりにくい」と指摘している。

     野口氏の提起は、外国人を含めた多文化共生社会づくりの課題とまったく同じである。インクルーシブ教育や多文化共生を進めることは、私たちの社会を私たちにとって居心地の良い社会に変えていくことなのだと痛切に思う。
    在来茶園楠森堂を訪ねて(2022年10月31日掲載)
    一般社団法人 日本グローバルイニシアティブ協会 綿貫 雅一
     6月の上旬、久し振りに福岡を訪問することとなった。その折に、知人から在来茶園を営んでおられる楠森堂を紹介され、色々とお話をする機会を得たので、ここで紹介したい。

    在来茶園楠森堂を訪ねて01

    現在の茶園風景
     その方は、今では全国的にも極めて希少となった「在来種のお茶」に強い想いを持ち、次世代に繋ぐべく奮闘されている楠森河北家28代目、河北幸高氏である。河北家は、稀代の由緒ある名家で、11世紀末期(建久元年/1190)、豊後の日田からこの浮羽の地に移って以来、830年間36代続く名家の家柄である。さらに先祖を辿ると実に神話時代まで遡り、〖108代前の先祖は、神武天皇の兄「三毛入野命 (ミケイリノノミコト)」母は「玉依姫命」〗と言い伝えられているとのことである。

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    主屋:明治14年築
     江戸時代末期から大正時代にかけて建てられた建造物は今も現存し、当時の暮らしぶりや製茶場の歴史をたどる貴重な建物として2004年(平成16年)「国登録有形文化財」に指定されている。更に、日本近代美術史研究の先駆者である美術評論家の河北倫明氏は、この家の生まれであり、名門の家柄を如実に物語っている。

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    新座敷:大正初期築
     楠森堂のお茶づくりは、今から約二百年前の江戸時代末期にまで遡る。現在、茶園のある大野原台地(浮羽町山北地区)一帯は、太古の昔に阿蘇山の大噴火により形成された強度の酸性土壌からなる火山灰土であった。そのため農作物が育ちにくく、当時の農民の暮らしは極めて厳しいものであった。河北家21代当主・河北太郎衛門永重は、農民の暮らしを支えるため、この酸性土でも育つ「茶」を植えたのが始まりと伝えられている。

    在来茶園楠森堂を訪ねて04

    創業当初の茶園風景
     時が流れ、1923年(大正12年)、河北家25代目当主・河北俊義(旧 山春村〈現 浮羽町〉村長)が楠森製茶場を創設し、本格的にお茶の生産を始めた。河北俊義は、茶栽培先進地の静岡県から茶の技師を招き、当時の先端技術を積極的に採り入れ、機械の増設や改良に努めたことから、1933年(昭和8年)には農林省指定の模範工場に選定された。最盛期には栽培面積を最大十二町歩(12ha)にまで広げ、単独所有での茶園の規模は、県内はもとより国内茶生産地のなかでも最大級の栽培面積を誇っていたと言われている。
     しかし、戦後の高度経済成長期を迎え、苦境を経験する。多くの農民は、収入の良い出稼ぎに行くようになり、人手不足の状況になった。また農作物の品種改良や栽培技術が進み、収穫時期が変化した結果、農閑期での茶の生産が難しくなっていった。

    在来茶園楠森堂を訪ねて05

    在来茶
     更に、茶の試験場・研究機関が八女(福岡県)に新設され、他の生産地同様に、栽培の品種化や設備の近代化が導入されてきた。しかし、楠森堂は品種化や設備の更新も行わず、伝統的な手法を続けてきた。そのため、従業員の高齢化や後継者の問題とも重なり、楠森堂は縮小の一途を辿ることとなる。しかし、そのことが結果的に、今では全国的にも極めて希少となった「在来種」の茶樹を現代まで残すこととなった。
     このような厳しい現実のなか、28代目となる河北幸高氏は、2005年、30歳の時にお茶の栽培に関わることを決意。会社員時代を経て、生まれ育った筑紫野市から、父方の実家である河北家に移住を決断する。地域との繋がりの強い農業を通して、文化財として価値ある旧家と伝統行事を守り、また代々続く伝統的な楠森堂の茶園の維持と再興を図りたいとの強い想いからである。
     農家経験もお茶の知識もない河北氏にとって、お茶作りは正に試行錯誤の連続であった。「在来茶ということで、その希少価値が評価されるのではなく、安く買い叩かれる現実を通して、在来種の真の価値を見出すことが出来た」と語っている。
     河北幸高氏は、静かな口調で、しかし熱く在来茶への強い想いと覚悟を語ってくれた。「在来種」の茶樹は、何千年もの永い時間の中で自然交配を繰り返すなかで生み出されている。今から千数百年前に、海を渡った僧侶たちが茶の種子を中国から持ち帰り、育成したことに由来する。そして、様々な貴重な固有種の茶樹が混在するのが、楠森堂の「実生(みしょう)在来茶園(在来種の茶畑)」であると。

     現在の栽培面積は、最盛期の半分以下の面積4haに縮小した。しかし、その多くが国内では極めて希少な日本古来の「実生在来茶園」。まだまだ試行錯誤の連続ではあるけれども、荒廃しつつあった楠森堂在来茶園、国内から消滅しつつあった在来茶の再興に取り組んで行きたい。多くの茶園が生産性の高い「改良種」の生産をする今日、楠森堂は自然の中で育った樹齢100年を超える、希少な茶樹から採れた「在来種」の茶葉を、しかも無農薬で栽培している

    在来茶園楠森堂を訪ねて06

    河北幸高氏と共に
     河北氏は、笑顔で穏やかに、次のように結んだ。『この貴重な茶園をなんとか後世に残したい。昔ながらのお茶の味わいを、多くの方に味わってもらいたい。素朴で力強い、日本古来のお茶本来の味を絶やさぬよう、未来へと伝えて行きたい。』
     一度お会いした限りであるが、河北氏の決意、覚悟そして行動力には敬服するばかりである。大変重い歴史を持つ遺産を継承し繋いでいくことは、並々ならぬ覚悟と努力が必要である。また実施にあったては、地元の理解と協力も不可欠であろう。地方の固有の資源を活かし、将来にわたる自立的な地方の再生に不可欠な要素と多くの共通点を持っていると考える。
    河北氏のこれからの挑戦と取組に共感すると共に、この素晴らしい活動を応援をしていきたい。

    <参考資料>
    大きく育ったブルーシベリアトウヒ:モンゴル(2022年9月29日掲載)
    中央学院大学 現代教養学部長/教授 佐藤 寛

    大きく育ったブルーシベリアトウヒ01

    日本人墓地のブルーシベリアトウヒ(撮影:B.ボルド 2022年8月3日)
     今年の夏、突然に写真付きのメールが届いた。ウランバートルに住む友人のB.ボルド氏からである。それは「大きく育ったブルーシベリアトウヒ」の写真であった。
     2019年8月に本学の現代教養学部「異文化社会現地研修」において、学生とともに2週間の日程でモンゴルを訪れた。本プログラムの遂行にあたり、事前にモンゴルの関係者と打ち合わせた中で、モンゴルでは砂漠化が大きな問題となっており、その対策として国家をあげて植樹をすることが奨励されているということを聞き、そこで、モンゴルの環境問題を理解する一環として、学生諸君と相談した結果、植樹することになった。当初から日本とモンゴルの歴史・文化等の関係を理解するために、日本人墓地への参拝を計画していた。関係者のご尽力により日本人墓地の敷地内に参拝記念として植樹することが実現となった。

    大きく育ったブルーシベリアトウヒ02

    日本人墓地のブルーシベリアトウヒ(撮影:B.ボルド 2022年8月3日)
     モンゴルを訪問して3日目に、その機会が訪れた。現地関係者が我々の植樹の希望を快く引き受けてくださったので、植樹用の苗木を求めて学生達とウランバートル市内のホームセンターを歩き回って探した。最終的には極寒に耐えるという「ブルーシベリアトウヒ」(Siberian spruce)を選び、苗木5本と肥料を買い求めた。ブルーシベリアトウヒは、シベリア内陸部に分布する常緑針葉樹で、青緑色の短い針葉を持っている。円錐形のような美しい樹形でクリスマスツリーにも似ている。早速、日本人墓地へと向かった。到着すると、日本人墓地の管理人と二人の若者が私たちを温かく迎えてくれた。日本人墓地の敷地内には植樹用の大きな穴が5つ掘ってあった。我々は挨拶後、早々に慰霊碑に参拝、記念堂に行き、丘の上から日本の方向に向いて合掌した。いつも元気の良い学生達がこの時ばかりは口数が少なかったことが印象的であった。その後、学生達と共に植樹にとりかかった。土地はとても固く、事前に穴を掘る必要があったことが理解できた。管理人は午前中から穴を掘って我々を待ってくれていたのだ。

    モンゴルでの植樹01

    日本人墓地の敷地内に管理人とともに植樹する学生(撮影:日本人墓地管理者 2019年8月21日)
     日本人墓地の維持管理は日本の厚生労働省がモンゴル赤十字社に委託しており、管理人が敷地内の慰霊碑の掃除をはじめ、敷地内の除草や植栽の伐採、低木には日常的に剪定や潅水を行い、敷地内を巡回し点検を行っている。このような対応によって、我々が植樹した苗木は当時30cm程度であったが、B.ボルド氏のメールによれば、約1mに成長した木もあるとのことである。

     日本人墓地はウランバートル市内から北部15kmのダンバダルジャーの小高い丘に存在する。第二次世界大戦後、モンゴルに抑留された日本人の中で祖国へ帰ることを望みながら命を落とした方々が埋葬されたが、ここに埋葬された遺骨は1999年から2001年にかけて当時の厚生省(現:厚生労働省)によって収集されて日本に戻った。日本政府はこの地に2001年に慰霊碑を建立した。「抑留」といえば、シベリア抑留が思い出されるが、モンゴルにも日本人が抑留されていたことを忘れてはならない。

    モンゴルでの植樹02

    日本人墓地の敷地内に植樹する学生と筆者(撮影:日本人墓地管理者 2019年8月21日)
     地球環境の悪化が世界中で懸念されている中、モンゴルにおいても例外ではない。U.フレルスフ大統領が、第76回国連総会(2021年)で気候変動、砂漠化対策に最適な方法は植林であると強調した。2021年から2030年までに「10億本の植林」を目指す全国植樹運動が本格的にスタートし、別荘などで植樹をする市民も増え、5 月と 10 月に木を植える「植林の日」を定め、ウランバートル市内の組織、企業、市民が、植樹を行うことが習慣になりつつある。

      全国植樹運動は、気候変動による悪影響を軽減するだけではなく、砂漠化した土地の回復、森林と森林保全区の拡大、さらに、貴重な水源の保護と生態系のバランスの維持に向けた重要な取り組みとして位置づけられている。全国植樹運動に賛同し、社会的責任の一環として、植樹計画(植樹と維持)を公表している企業も少なくない。具体的には、2022年3月30日のモンゴル大統領府公式ホームページによると、金融分野の17の組織(銀行等)が 8860万本の植樹をすることを約束し、それぞれの企業の代表者と環境観光大臣が「植樹証明書」を交わしており、モンゴルの特異な環境問題に対する植樹政策が伺える。民間レベルでは、樹木や果樹の種類や育て方に関する連続番組が国営テレビで放送され、国民の関心も高まっている。
     ウランバートル市は四方を山に囲まれた盆地に位置しているが、樹木が生育していないハゲ山と化した丘陵が多い。北部の森林地域を別とすれば、ウランバートル市を出て地方に行くと、丘陵が延々と続く大草原の風景が広がる。モンゴル土地行政管理・測地・地図庁のホームページによると、2022年8月現在、森林資源が国土のわずか9.1%という。日本に来るモンゴル人は、山に樹木がたくさん繁って生えている日本の風景をみて、モンゴルの草原の景色と大きく異なるという感想を口にする。モンゴルにとってこれからは樹木がとても貴重な資源となるだろう。

     今回のモンゴルからの写真メールは大きなサプライズであった。コロナ感染症が2020年の年明けごろから世界を席巻し、全世界の経済活動をはじめあらゆるものが自粛された。この影響でモンゴルに植樹した樹木のことは、気にしながらも忘れかけていた。今回の写真メールのおかげでモンゴルの極寒の地に耐えながらも若木のブルーシベリアトウヒがすくすくと成長していることを知り安堵するとともに、おおきな心の穴が開いていたのがわずかながら癒された思いがした。当時、植樹した学生達は全員卒業して立派な社会人となっている。彼らもブルーシベリアトウヒが成長しているように、長い人生には多くの苦難もあると思うが力強く逞しく成長することを祈願している。将来、彼らが自分の家族を連れてかの地を訪れて、大きく育った木を見上げる日が来るだろうか。そしてモンゴルの大草原が森に変わる日は訪れるだろうか、想像は尽きない。
     今年、日本とモンゴル国交樹立50周年を迎え、更なる交流が行われることを期待したい。
    旧井上家住宅を訪ねて(2022年8月29日掲載)
    中央学院大学社会システム研究所特別研究員・現代教養学部教授 林 健一
     本プロジェクトでは、地域の魅力調査を現在進めている。私は我孫子市を担当しているが、地域の魅力を象徴する我孫子遺産に注目している。

     文化財保護法では、わが国にとって歴史上、芸術上価値の高いものを文化財として認定しているが、これに限らず、私たちの生活の中には、建物・景色・昔ばなしなど、地域固有の歴史や文化がある。そこで、我孫子市は、文化財指定の有無に関わらず、市民が市の文化・歴史を語るうえで必要な「大切なもの・価値のあるもの」にも着目し、我孫子遺産という概念を提唱している。
     この概念は「我孫子市文化保存活用地域計画」(令和2年12月18日・文化長官認定)において新たに提示されたもので、市の歴史、文化にまつわる魅力(我孫子遺産)をわかりやすく伝えるため、4つの「ものがたり」を作成している。同市は、この「ものがたり」を通じて一つ一つの我孫子遺産を計画的に保存・活用することで、その魅力を引き出し、磨き上げ、次世代へと継承する取り組みを行っていくとしている。

     「ものがたり」の1つに「水のものがたり」がある。水は古来より恵みを与えてくれる存在であったが、時に人々に災いをもたらす存在でもある。手賀沼と利根川に囲まれた我孫子市は、水の恵みと災いを受けてきた歴史をもち、水と人との密接な絆を示す我孫子遺産が市内には多数点在している。

     我孫子市東端の布佐地区(我孫子市相島新田)にある旧井上家住宅は、「水のものがたり」に関連する我孫子遺産の1つであるが、先日再訪することが出来た。

    開発経世碑(旧井上家住宅を訪ねて:写真1)

    写真①「開発経世碑」
     井上家の歴史は古く、江戸中期の享保12(1727)年頃には、享保の改革の一環として実施された手賀沼・印旛沼干拓に参入するため、江戸尾張町(現 銀座6丁目付近)から、相島新田地区に移住している。井上家はこの地で新田の開発に取り組み、名主として次第に力を持つようになっていく。
     しかし、度々襲った利根川の氾濫により、手賀沼周辺もその都度洪水に見舞われた。このため、干拓事業が終了したのは、昭和26(1951)年と実に200年以上の歳月が経過している。旧井上家住宅の裏門前には「開発経世碑」(写真①)が建立され、相島耕地整理を主導した井上二郎(井上家12代当主)の功績と、長年にわたる事業の歴史の一端が記されている。
     旧井上家の敷地内には、江戸期から戦前昭和期までの建造物(建造物(母屋・二番土蔵・新土蔵・旧漉場・表門・裏門・外塀・庭門・庭塀)が残され、これらは平成24年に我孫子市の指定文化財となっている。また、相島新田、三河屋新田の名主を務めてきた井上家には、14000点に及ぶ古文書など(井上家資料)が保管され、これらには手賀沼干拓に関する貴重な資料が含まれている。

    母屋全景(旧井上家住宅を訪ねて:写真2)

    写真②「母屋の全景」
     敷地以内で目を引く、最も古い建物は母屋(写真②)である。母屋は、安政5(1858年)年に建てられた、伝統的な上層農家の構えをもつ。建物の式台玄関は昭和期の増築で、伝統と近代の融合が見られる建造物である。
     式台玄関からは母屋内部を見ることが出来るが、明治15(1882)年に、松平家から嫁入りの際に持ってこられたと伝わる、葵の御紋が記された長持(写真③)が展示されている。その他にも、敷地内には、嘉永4(1851)年建設の表門(写真④)や、水塚の上に立てられた二番土蔵(写真⑤)や新土蔵などが見られる。

    葵の御門が記された長持(婚礼用)(旧井上家住宅を訪ねて:写真3)

    写真③「葵の御門が記された長持(婚礼用)」

    江戸末期の本格的な薬医門(表門)(旧井上家住宅を訪ねて:写真4)

    写真④「江戸末期の本格的な薬医門(表門)」

    水塚と二番土蔵(旧井上家住宅を訪ねて:写真5)

    写真⑤「水塚と二番土蔵」
    手賀沼干拓によって生み出された土地に度々起こる内水氾濫の被害を避けるため、水塚(みづか)と呼ばれる盛土の上に土蔵が立てられている。
     この様に、旧井上家住宅は、手賀沼干拓に尽くした豪農の生活と屋敷景観を今日に伝える貴重な文化遺産となっている。「水のものがたり」を構成する我孫子遺産には、「水がもたらす豊かな恵み」を示すものと、「洪水との闘い」を示すものに分類されるが、いずれも地域の歴史と魅力を形作るものであり、今後プロジェクトで予定されているグローカルデザインの基礎として目していきたい。

     しかし、旧井上家住宅の保存と活用には課題も多い。我孫子市自身も、保存・活用の基礎となる「旧井上家住宅保存活用計画」の作成、布佐地区の回遊を促進するための保存整備工事、母屋内での様々な展示やイベントを企画し、来場者を増やす取組みの実施などを「我孫子市文化保存活用地域計画」(p.103)において課題として指摘している。
     こうした取り組みにより、旧井上家住宅が水と人との密接な絆を象徴する場の1つとして磨き上げられ、「水のものがたり」が幾世代にも亘って語り継がれていくことを期待したい。
     
    (掲載写真は2022年8月26日筆者撮影)

    [参考資料]
    • 我孫子市教育委員会(2016)「我孫子市指定文化財旧井上家住宅」
    • 我孫子市教育委員会(不明)「我孫子遺産をご存じですか?」
    • 我孫子市教育委員会(2021)「我孫子市文化財保存活用地域計画」
    • 我孫子市ホームページ「旧井上家住宅」
    伊根の舟屋を訪ねて(2022年8月17日掲載)
    社会システム研究所長・現代教養学部教授 中川淳司
     6月の週末を利用して、京都府北部の伊根町を訪問した。最寄り駅は京都丹後鉄道 宮津駅。駅からレンタカーで1時間ほどで伊根町に着く。丹後半島の北端に位置し、伊根湾に沿った集落は、湾に面した1階に舟を引き上げて格納する舟屋づくりがユニークである。重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。1日1組限定で海の幸を供する舟屋に宿を求めた。新鮮な料理は期待を裏切らなかったが、篤実なご主人夫婦との会話、伊根湾を回る舟を出してくれた息子さんが聞かせてくれた子供の頃の話が何よりのごちそうだった。伊根湾は干満の差が30㎝と極端に少ない。お盆を伏せたような穏やかな水面である。息子さんが子供の頃は湾内が遊び場であり、舟屋から泳いで近所の友達のところに遊びに行ったという。小魚を釣り、潜って岩ガキを取るのが遊びだったとも。町育ちの私には想像のできない、海に慣れ親しんだ子供時代の思い出が新鮮だった。

    伊根の舟屋

     ご主人夫婦との会話では、伊根の観光をめぐる話が興味深かった。昭和から平成の初めころにかけては、日本の多くの漁村と同じく、自宅の一部を宿泊客に提供する民宿の営業が盛んであったけれど、住民の高齢化と過疎化の進行で廃れていったこと。代わって、1日1組限定で舟屋に泊める現在の業態を10数年前に始めたが、最初は閑古鳥が鳴いたこと。ホームページを開設して、次第に宿泊客が増えたこと。テレビ番組で取り上げられてから一時的に宿泊客が増えたけれど、今は落ち着いていること。重要伝統的建造物群保存地区に選定されたことから、舟屋の改築には厳しい制限がかかっているが、そのことをプラスにとらえて、昔からの家並みを生かした改築・改装を心がけていると伺った。

     伊根町は、日本でもここだけにしか見られない舟屋の家並みを資源ととらえて、それを活用した観光に将来を見出しており、それは日本人だけでなく海外からの観光客にも十分にアピールすると思う。現に、何組かの外国人旅行者を見かけた。新型コロナウィルス感染症が収まり、インバウンドの観光客が本格的に日本を訪れるようになれば、有望な訪問・滞在先になるだろう。グローカル・デザインの実践例として、印象に残った。

     宮津から伊根に向かう途中で、天橋立に立ち寄った。日本三景の一つとして知られる著名な景勝地であるが、駐車施設の貧弱さと駐車料金の高さ、飲食店のメニューの陳腐さにがっかりさせられた。伊根を見習って、観光のあり方をデザインし直してはどうかと思った。
    外国人受け入れ30年間に及ぶ大泉町に学ぶ(2022年6月30日掲載)
    共愛学園前橋国際大学准教授 西舘 崇
     『サンバの町それから〜外国人と共に生きる群馬・大泉』を読んだ。本書は群馬県前橋市に本社を置く上毛新聞社が今年(2022年)の春に刊行したもので、執筆者は1989年から2021年までに同社大泉局に勤務経験のある13名の記者たちである。編集はその中で勤務年数の最も長いベテラン記者が担当している。

     群馬県大泉町は日本有数の外国人集住地域であり、全人口(41,584人)に占める外国人住民数(7,821人)は2割近くに及ぶ(2022年2月現在)。出身国ではブラジルが最も多く4,496人で全体の6割近くを占めており、次いでペルーが1,050人、その後はネパール431人、ベトナム359人、フィリピン277人と続く。同町に外国人住民が増えるきっかけとなったのは、日系人とその家族らに対して新たな在留資格を新設した1989年の入管法改正であった。

     さて、きちんとした書評は別稿に譲るとして、ここでは読後の感想をフレッシュなうちに記しておきたい。

    ・本書を読みまずもって感銘を受けたのは、30年間に及ぶ外国人住民との共生・共創に対する丁寧で温かな記者たちの観察であり、その記述である。内容は客観的であるはずなのに、その中で描かれている人物や出来事に思わず感情移入してしまうことも多くあった。30年間という月日は、あたかも日本人と外国人との ‘結婚生活物語’ のようだった。その生活は幸せなことだけではない。辛いことも、悔しいこともあった。様々な思いを胸に押し込みながら、この地で暮らし続ける人々が多くいることも推察することが出来た。

    ・上述の点に関連するが、この地を外から訪れる人たちは–––それは例えば私のような研究者だったりするのだが––– ‘今’ 起きていることに目を奪われがちだ。しかし、その出来事や状況の多くは、この数日とか数ヶ月の間に新しく起きたことではないのだ。それは、途切れることなくずっと続いてきた日々の暮らしの中の ‘延長線上’ にあるものなのだ。現地調査で大泉を訪れると、必ずと言って良いほど聞く言葉がある。それは「(今回だけでなく)長く見てくださいね」ということだ。本書を読みながら、この言葉の意味を改めて認識することとなった。

    ・この本全体を貫く主題とは何か。その一つは間違いなく「外国人との共生は一筋縄ではいかない」ということだと思う。この分野ではよく言われる指摘だが、本書の場合は30年間の重みを伴うがゆえに、その意味することは胸に深く突き刺さる。編集を担当した記者は言う。「時間が経過すれば日系人も日本語を覚えて、日本社会の一員として働き、税を納め、次の世代を育んでいくものだと私は漠然と信じていた。しかし、そんな予定調和的な世界は来なかった」と。移民を受け入れるコストについては「楽観的すぎて、見誤っていた」のだと付け加える。この町を四半世紀以上見つめてきた記者の一言に、「ああぁ、そういうものなのか」とただただ思うばかりであった。しかしその一方で私は、同記者や他の記者たちが本書に書き残してくれた様々な出来事や登場人物たちの言動に、外国人たちとの共生を実現するための沢山のヒントを感じ取ることが出来た。

    ・その代表例は「助けられる存在」としての外国人、という発想を覆すことである。3.11の被災地に対する日系ブラジル人たちのボランティア活動に学ぶことは多い。当時の斉藤直身町長(2009〜13年在職)はその活動に触れながら、「外国人イコール災害弱者ではない。適切な情報提供が行われれば、支援する側として活躍していただくこともできる」と語ったようだ。外国人住民らが「支援される存在」から「支援する存在」へと変わっていくことは、日本人と外国人が対等な関係を築いていくための大きな一歩であろう。その実現に向けたヒントを、この本の記者たちは見過ごさず、読者にしっかりと伝えてくれている。

     読後の簡単な感想は以上の通りだが、今後は本書を用いながら学生たちや関係者の皆さんと共に考え、議論できる機会を持つことが出来たらなぁと思った。最後になったが、本書にはこの前編となる『サンバの町から〜外国人と共に生きる群馬・大泉』(1997年)があることも記しておこう。こちらは1989年の入管法改正から96年までの7年間の取材内容が編集されている。
    同調圧力社会を考える(2022年5月6日掲載)
    中央学院大学社会システム研究所教授  福嶋 浩彦
     目に見えないコロナウイルスへの不安や自粛生活への疲れなど、社会へのやり場のない不満が溜まると、自分と異質な者への攻撃や少数者への否定が前面に出やすい。結果として市民の分断が起こる。こんな時ほど、一人一人の自由意思が尊重される社会を大切にしたい。

     直近ではワクチン接種への有形無形の同調圧力が目立つ。ワクチン接種は予防接種法第9条による「努力義務」だが、最終的には個人の意思である。しかし、とても自らの意思とは言い難いケースもある。接種しない社員は上司と面談が義務付けられるなど、とくに職場での同調圧力はほとんど強制に近い。
     逆に一部では、ワクチン接種を推進する人に対し悪者呼ばわりの批判を浴びせたり、接種した人を危険性について無知な愚かな人と決めつけたりする場面も見られる。

     5歳から11歳の子どもへの接種も始まった。公益社団法人・日本小児科医会は、総合的には接種を求めながらも、「発症時の重症化予防のためのワクチンとの意味合いが大きいことから、そもそも重症化することが稀な小児期の新型コロナウイルス感染症においてのワクチン接種の意義は成人・高齢者への接種と同等ではない」と指摘している。
     11歳以下は、予防接種法の努力義務も適用されない。子どもと保護者が、ワクチンによる効果のメリットと副反応などのデメリットを良く考え、自主的に判断することが大切だ。子どもまで分断に巻き込まれるのは避けたい。

     自治体でも丁寧な対応に努力している。例えば松江市では、小学校の全保護者へお知らせを配布。「理由の如何を問わず『摂取しない』という選択は尊重されるべきものです。接種を希望しない人が、接種の強要、差別的取り扱い、偏見などを受けることの無いよう、皆さまのご理解とご協力をお願いいたします」と訴えている。
     ただ、学校現場では様々なことが起こっている。ワクチンの前にクローズアップされたマスクでは、児童の1日の生活自己チェック表に「マスクをして笑顔であいさつできましたか」という項目があったり、節分の豆まきで「マスクをしない鬼を退治」と子どもに言わせたり、という笑えない事例もある。子どものマスクは「可能な範囲での推奨」で強制ではないし、健康上の理由でマスクできない子もいるのだが―。

     残念ながら現場の教員の理解が不十分と言わざるを得ない場合もあるが、社会全体の意識が大きく反映しているように思える。
     社会の空気、同調圧力、分断といったものは、新型コロナに限らず過去にもあったし、未来にもあり得る。(国も自治体も)政府がいつも正しいというわけではない。むしろ、たびたび間違える。同調圧力で社会が一つの方向へ、とくに政府が示した方向へ向かってしまうのは危険だ。

     同調圧力と分断を生まない最善の策は、地域社会の中で多様な考えを持つ市民が、安心して自由に自分の意見や疑問を話し合える対話の場を作ることだ。多くの自治体で、まだその取り組みは十分ではない。しかし実は、こうした多様性のある社会を作ってこそ、外国人を本当に地域の一員として迎え入れる多文化共生社会を実現できるのではないか。
     コロナ禍でさまざまな困難に直面している外国人ももちろん多い。私たちの社会が多様性と自由な対話でコロナを乗り越えることができるかは、多文化共生社会の試金石であるように思う。
    グローカルデザイン実践海外編:沙漠ニンジンによる砂漠化防止の取り組み事例(2022年3月31日掲載)
    一般社団法人 日本グローバルイニシアティブ協会 綿貫雅一
     今回は、これまで20年にわたり中国内モンゴルのアラシャン地域で植林事業の取り組みを行なっている植物研究博士であるオイスカ阿拉善(アラシャン)砂漠生態研究センター所長の冨樫 智氏を紹介したい。中国内陸部の辺鄙な地域でまた厳しい自然環境のなか、色々な困難と失敗を克服して、砂漠化防止、森林再生そして農牧民の生計向上に貢献してきた事例から、グローカルデザインの実践に向けた視点を学ぶことができるのではないかと考える。

    冨樫智氏

    オイスカ阿拉善(アラシャン)砂漠生態研究センター所長 冨樫 智氏
     内モンゴル最西部に位置するアラシャン(人口23万人)は、伝統的な遊牧から定住化が進み、家畜の過放牧、草原の過伐採、また気候変動により、過去数十年にわたり深刻な砂漠化が進行してきた地域である。この様な厳しい環境のなか、冨樫さんたちは地元政府との連携の下、2001年から植林活動を開始。2006年のオイスカ阿拉善砂漠生態研究センターの設立を機に本格的な植林事業に取り組んできている。

    内モンゴル地図

    植林事業01

    植林事業02

     当初はなかなか想定した成果が得られず、うまく行かなかったとのことである。その主な原因は、現地の状況、特に農牧民の立場に立った視点が抜けていた点を挙げている。この取り組みは環境回復という目的の基に植林活動を開始した経緯がある。しかし、本来、植林の文化や経験のない農牧民にとって、植林に対する関心や意識は低いのは至極当然である。また繁忙期の植林はその労働負担に見合う収入が見込めないことから、農牧民の自発的な参加が見込めなかった。更に、事業実施に対して早く結果を出したいとの思いから、成果主義に立って活動したことも挙げている。

     具体的には、活動当初は樹種として生長が早いポプラなどの喬木を選定し、植林を開始。しかしこの樹種は大量の水を必要とするため、アラシャンのような乾燥地帯では農牧民にとって水管理が大きな負担となり、植林した樹種が枯れてしまう結果となってしまった。この経験から、基本的に乾燥地での植林は農牧民の管理負担が掛からず、水の少ない、もしくは天水に頼る方法を選ぶべきであるとの貴重な教訓を得ることができたとのことである。

    植林事業03

    植林事業04

     この反省から、植林の管理が極めて容易な樹木サクサウール(中国:梭梭)の樹種に切り替えると共に、その根に寄生する沙漠ニンジン(ニクジュヨウ)の栽培の取り組みを開始する。サクサウールは、内モンゴルからユーラシア大陸の内陸乾燥地にかけての広い範囲に生息し、植林時に3回程潅水すれば、あとは管理のいらない乾燥や塩害に強い低灌木である。嘗てはアラシャン地域の800 kmにわたり自生していたといわれている。
     この沙漠ニンジンは精力剤として、また不妊症や認知症にも効果があるとされ、中国では不老長寿の薬として古来より珍重されてきた漢方薬である。そのため潜在的な需要が大きく、中国では毎年5,000トンあまり不足している。
     しかし、この植物栽培の最大の難点は、宿主への寄生率が極めて低く、自然の状態では0.7%程度しか寄生しないとのことであった。寄生率の向上を目指して沙漠ニンジンの試験栽培を開始し、人工寄生する方法の開発に取り組んだ結果、寄生率を90%以上と飛躍的に向上させることに成功。また収穫まで3~4年を要するため当初は普及に時間が掛かったが、2009年頃から農牧民への栽培管理の指導や生産販売の組織化が整い、栽培面積が徐々に広がり、砂漠ニンジンの生産供給体制の確立と価格の維持を達成することができるようになった。

    植林事業05

     その結果、以前は積極的でなかった農牧民が春には自主的に植林をするようになり、収入もこれまでの放牧に比べ10倍以上にもなった農牧民が次々に出てくる状況になってきた。2018年には、この地域だけで年間17.5万haと東京都に近い面積の緑化を達成し、これまでに累計212万本の植林を行ってきている。

     活動当初は、砂漠ニンジン栽培での農牧民の年収は僅か3,000元(約5万円)程であった。しかし人口寄生方法の確立と共に収穫量が上がり、またニンジン種子の高騰から、年収20万元(約300万円)を超える収入を得る農牧民もでてきた。こうして植林が収入向上に繋がることが分かると、積極的に植林に参加する農牧民が増え、植林需要が一気に増える結果となった。
     この様に、漢方薬の薬草栽培と植林活動を組み合わせた取り組みは、アラシャン地域の砂漠化防止、森林再生といった環境回復に大きく寄与している。更に、農牧民の生計向上、現地住民の定着や雇用の創出といった自律的な地域経済を支えることにも大いに貢献している。

     冨樫さんは、アラシャンでのこの好循環の環境改善サイクルを、森林伐採や家畜の過放牧、塩害による土地劣化などから深刻な砂漠化が進行しているウズベキスタンでも、砂漠化防止のモデルを作りたいと挑戦している。サクサウールを活用した植林の取り組みを一つの経済開発のモデルとして農牧民にも栽培研修を行い、農民が自ら植林をするような基盤ができれば、ウズベキスタンの砂漠化を減少させ、地域環境を改善させることができるであろうと語っている。副次的な効果として、植林した地域では実際に降雨量も増えてきているとの観測データが得られているとのことである。

     これまで述べてきた冨樫さんの取り組みは、グローカルデザインの実践を考える上で、大変重要なヒントを幾つも含んでいる。日本の地方よりも遥かに社会経済インフラ・資源が乏しく、自然環境も過酷な地域にも拘らず、現地の実情を踏まえ、現地の人たちの立場に立ち、多くの人を巻き込み、環境保護と両立した産業を創出することができることを立証している。実に多くを学ぶ機会を頂いた。
     冨樫さんのこれまでの取り組みに敬意を表すると共に、これからの挑戦を応援していきたいと考える。
    横利根閘門を訪ねて(2022年3月7日掲載)
    現代教養学部長 佐藤 寛
     早春の2月末に利根川下流の閘門(こうもん)調査を行った。利根川には幾つかの閘門が存在しているが、2月24日に利根川沿いを中心として、小見川閘門、阿玉川閘門、笹川閘門、萩原閘門の調査を行い、25日の横利根閘門においては、国土交通省関東地方整備局利根川下流河川事務所の計らいにより、船を用意していただき、船上からの閘門調査を行うことができた。

    横利根閘門(船上より)

    横利根閘門(利根川の門扉)2022年2月25日筆者撮影
    ※閘門とは「水位の異なる河川や運河、水路の間で船が航行できるように水位を調整する施設」(『横利根閘門』より)。
     横利根閘門は、1900年(明治33)から始まった利根川改修計画に基づく第2期改修工事の一部として利根川と霞ケ浦を結ぶ横利根川の合流口に設けられた。利根川の洪水時の逆流から霞ケ浦沿岸を守り、利根川と横利根川の水位の変動があるために舟運往来に支障がない構造にすることを目的として、1921年(大正10)に完成した。

    横利根閘門資料イメージ図02

     横利根閘門は、茨城県稲敷市と千葉県香取市の県境の横利根川に設置され、2000年(平成12)には、国の重要文化財に指定されている。幅10.9m、長さ90.9m、門扉形式は複式、合掌戸、構造は煉瓦、石造であり、現在も使用されている。仕組みは、小門扉と大門扉の2種類の門扉で、横利根川に1組2枚、利根川に1組2枚の合掌扉で計4枚の門扉を有している。小門扉は横利根川の水圧を受け、大門扉は利根川の水圧を受ける。

    横利根閘門資料イメージ図01

     今回の利根川下流における閘門調査は、水に関する研究の一環として行ったものである。
     今までは環境社会学や環境政策の視点から、日本の水資源として全国の河川や湖沼などの調査研究を行ってきた。また、アジア地域を中心として中国、台湾、韓国、モンゴルの水資源、水環境についても調査研究を行ってきたが、その中で閘門については以前から大変興味があり全国の河川調査時にいくつかの閘門を見聞してきた。特に、利根川の関宿水閘門や横利根閘門には関心をもって幾度か訪ねており、いずれ研究の対象にと考えていた。
     今回の利根川の閘門研究は「河川管理の研究」の良い機会となると考え、調査前に利根川下流事務所に尋ねたところ、快く調査研究に対応していただいた次第である。
     早春の穏やかな気温の中、河川上では時折冷たい風に見舞われたものの、研究スタートとしては心地良い風であった。
     今回の調査に当たり、国土交通省関東地方整備局利根川下流河川事務所調査課の方々には大変お世話になり、この場をお借りして感謝申し上げる。

    横利根閘門調査

    乗船者(右:佐藤)2022年2月25日関係者撮影
    <参考資料>
    『よみがえった横利根閘門』建設省関東地方建設局利根川下流工事事務所発行
    『横利根閘門』国土交通省関東地方整備局利根川下流河川事務所発行
    ドキュメンタリー映画「ボストン市庁舎」のメッセージ(2022年1月7日掲載)
    中央学院大学社会システム研究所長 中川淳司
     年末にドキュメンタリー映画「ボストン市庁舎」を観た。1930年1月1日生まれ、当年92歳になる巨匠フレデリック・ワイズマン監督の最新作である。マーティ・ウォルシュボストン市長と市職員が進める行政の現場を丹念に取材した4時間半に及ぶ長尺のドキュメンタリーだが、最後まで飽きさせない。2018年秋から2019年冬にかけてのボストン市政府の活動がとらえられている。

     映画の一つの大きなメッセージはトランプ政権への批判である。多くのシーンで市長や市職員はトランプ政権の政策に不満を述べる。それは市長と彼の下で働く人たちが民主主義の規範を信じているからである。それは「市政は市民のためにある」という信念である。ウォルシュ市長はファニエル・ホールで退役軍人の話を聞き、シンフォニーホールで市政報告を行う。彼は決して雄弁ではないが、訥々と語りかけるメッセージは明快で心に響く。自分がアイルランドからの移民であること、小児がんに罹ったこと、アルコール依存症の治療を受けたことを語る。市民の気持ちに寄り添うことが自分の信念であり、市民からの電話には必ず応答すると繰り返し語る。実際、おびただしい数の声が市庁舎に寄せられ、担当職員が丁寧に応対する様子が淡々と描かれる。

     映画のもう一つのメッセージは困窮者を助ける市政である。立ち退き防止のタスクフォース、ラテン系女性の経済的向上のタスクフォース、民族に特化した食料品店を協力する経済開発アドバイザーなどが登場する。中でも印象的だったのは、マリファナの販売店を開業しようとする業者と地元住民たちの対話集会のシーンだった。市がおぜん立てした対話集会で、住民たちは開業に対する不満や不安を業者にぶつけ、業者はこれに答える。議論は白熱するが決裂はしない。対話を通じて何とか折り合いを付けることを確認して、40分に及ぶシーンは終わった。このシーンに市長や市職員は登場しないが、そこに通底するのは「市民との対話を通じた問題の解決」に対する彼らの信念であり、それを体現する住民、業者の姿勢である。これこそが地方自治の基本であることを改めて思った。

     この映画はグローカルデザインにとって多くのヒントを与えてくれる。まだ上映中なので、ご覧になることをお勧めしたい(映画「ボストン市庁舎」公式サイト)。 併せて、ワイズマン監督の2017年の作品「ニューヨーク公共図書館」もご覧になると良い。こちらは日本での上映は終わったが、アマゾン・プライムで観ることができる。

     ウォルシュ市長は、2021年1月、バイデン政権の労働長官に抜擢された。米国の民主主義の底力を感じた。
    日本人にとって ‘心地良い’ 多文化共生社会?(2021年12月24日掲載)
    共愛学園前橋国際大学准教授 西舘 崇
     以前、多文化共生に関するあるシンポジウムにて「多文化共生社会の真のステークホルダーは、結局のところ、一体誰なのか」と問題提起した方がいました。司会進行役を務めていた私は、この質問に咄嗟に答えることができず、「とても大切な問いかけなので、皆で考えていきましょう」などと場を濁してしまったことがあります。

     その時から2、3年が経ちましたが、この問いには未だ十分に答えることができません。皆さんだったらどう答えますか。

     現段階での私の仮説は、いくつかの多文化共生施策は、日本人にとって ‘心地良い’ 形の社会を想定しているのではないか、というものです。日本人側に悪気があるわけではありません。しかし、私たち日本人は、私たちが想像し得る範囲の中で、外国人の思いや行動を捉えようとしているのではないか。そして、その予測をもとに、課題の解決策や対策を講じているのではないか、と考えるのです。そうした施策の多くは、あくまでも私たちが想像する‘外国人の課題’に対するものであり、外国人自身が考えている課題に対してではないかもしれません。

     以上のように考えるに至った気づきや発見があります。それらは次のようなものです。

    ①技能実習生の関心ごと
     技能実習生と受け入れ企業側職員への聞き取り調査を行った際、受け入れ企業側の職員は、技能実習生の生活環境や健康などについて心配しており、何かできることがあるのではないかと考えていることがわかった。その一方で、技能実習生は生活環境や健康について何も心配していないことがわかった。実習生の最大の関心は、日本人職員の趣味や余暇の過ごし方であった。

    ②地域社会で活躍する外国人の姿
     地域活性化と外国人住民をテーマとしたパネルディスカッションにて、司会者の質問「外国人パネリストの皆さんは、この地域で活躍できていると思いますか?活躍できていると思う人は手をあげてください」に対して、外国人パネリスト全員が「活躍しています」と手をあげた。活躍の秘訣についてさらに聞いたところ、パネリストからは「自分のことを信頼して、役職を任せてくれたこと」、「語学(英語、ポルトガル語、日本語に堪能)の強みに気づいたこと」、「年をとってきて、地域にお礼をしたいと思うようになったこと」などの回答があった。

    ③留学生が地域社会に求めること
     日本語を学ぶ留学生らと日本人学生との交流会を行った際、留学生に対して「今住んでいる地域で困っていることは何ですか、地域に何を求めますか」、と聞いたところ、一人の留学生から「安くて美味しい果物が食べたいです。そんなお店があればぜひ教えて欲しい」との回答があった。

     以上は、それぞれ個別のイベントなどにおいて、私自身が気になってメモ書きしておいたものですが、とりわけ①と②は、「何か困っていることはありませんか」「活躍できていますか」と聞きつつ、意識的には「困っていることがあるだろう」「活躍できていないだろう」と想定しているように思います。外国人の回答は、そんな先入観を見事に覆しています。「活躍できている」と全ての外国人パネリストが答えた二つ目の例では、その後、それぞれの「活躍」経験に学ぶ、とても前向きな議論に展開していきました。

     ③は困っていることの具体的中身が予想と異なっていた例です。この留学生の答えは、そこにいた日本人学生のほぼ全員が「おー」と声をあげるほど、驚きを持って受け止められました。私自身もその会場にいたのですが、困りごとの代表例として「日本語の難しさ」「さまざまな制度の難解さ」「日本の習慣やルールの厳しさ」などがあがってくるものだと思っていました。それが見事に覆されました。私はそれだったら、「あの商店街の八百屋さん…など教えてあげたいなぁ」などと考え始めました。彼女の指摘を受け止めるなら、「留学生との商店街歩き」が多文化共生施策の一つにあって良いと思います。

     このような経験を踏まえると、私たちの社会は、まだまだ外国ルーツの方々の声を聞けていないのではないか、と思います。もちろん現在では、自治体の関係各所に相談できる場所もありますし、SNS などで外国人が自分の意見を伝えたりする機会もあるでしょう。しかし、自ら相談所に行ったり、SNSなどで意見を伝えたりすることのできる人は、ごく少数ではないでしょうか。彼らのリアルな声や想いを聞くためには、私たちから聞いていくという、より積極的な聞き方が求められていると思います。

     そうした声や想いをもとに多文化共生施策を考えていくことができるのなら、それは既存のものと少し違った形になっていくのではないでしょうか。
    「自分で調べる技術」を学ぶ(2021年12月13日掲載)
    中央学院大学社会システム研究所特別研究員、現代教養学部准教授 林 健一
     自らの専門分野を教養教育の文脈で教えることは思った以上に難しく、その悩みは深く尽きない。著者の所属する現代教養学部は、現代を生き抜く教養を身につけたジェネラリスト(多様な知識を有する人)を育てることをコンセプトとしている。このため、人文科学系志向の強い学生たちを地域社会の問題とその解決を考察する地域政策学に誘い、その魅力を伝える必要がある。著者の力量と経験の不足により、講義時間直前まで資料作成に頭を抱えることが、実はしばしばある。

     そんな折、宮内泰介・上田昌文(2020)『実践自分で調べる技術』(岩波新書1853)と偶然に出会った。同書は、「調査のデザイン」により、調査の設計、文献・資料の見つけ方、聞き取りの方法、データの整理、発表や執筆まで、縦横無尽にこれら組み立てながら統計や分析で調べていくための手順とコツを詳しく解説している名著である。座右の書として手元に置き、何かを調べる際に参照すると有用な情報を豊かに含んでいる。

     しかし、こうした実用性だけでなく私自身の導きの星となったのが、同書で紹介されている「市民による調査」(pp.5-11)である。つまり、私たちの社会がかかえている問題を解決する、私たちがより安心して暮らせる社会を目指すための調査が「市民による調査」である。その正しさは社会によって検証されるという開かれた手法であり、こうした調査手法を市民自らが身に付けていくことの必要性と自分たちで調べることの重要性が強調されている。

     私はこれを講義のヒントとし、「自分で調べる技術」を身に付けてもらうことを授業のコンセプトの1つとし、少しずつだがその取り組みを始めている。例えば、「政府統計の調べ方・読み方」を講義の数コマを当てるなどしているが、同著では政府統計の調べ方として「政府統計の総合窓口(e-Stat)」から探していく方法を解説している。

     しかし、初めて調べる学生たちが自由に使いこなすには少し難しい面があると感じられ、私は「統計ダッシュボード」を講義で活用している。このサイトは国や民間企業等が提供している主要な統計データをグラフ等に加工して一覧表示し、視覚的に分かりやすく、簡単に利用できる形で総務省統計局が提供するシステムである。

     人口、人口ピラミッド、失業率と求人倍率、消費者物価指数など、よく利用される統計データがあらかじめグラフ表示されおり、データの経年変化(時系列)や地域による差の比較がすぐにできるだけでなく、グラフ上で項目の説明やデータソースとなっている統計調査名を簡単に参照できる点に特徴がある。

     具体的には、代表的な統計指標(系列)を「グラフで見る」メニューから視覚的に確認できるだけでなく、1つの系列について複数時点、複数地域のデータを保持していることから、1つの地域に関する複数時点のグラフ(時系列)、1つの時点に関する複数地域のグラフ(地域別)を簡単な操作で切り替えが可能であり、クリック1回でランキングを作成することができる。さらに、データ周期 (月・四半期・年・年度)や地域階級 (各国・日本・都道府県、市区町村)の切り替え機能をもっている。

     類似サイトとして、総務省統計局と統計研究研修所が共同運営する「なるほど統計学園」もある。内容面では、統計の初歩の知識を学び、関連するクイズもあるなど魅力的である。子どもたちが統計に親しみを感じながら多角的に学ぶというコンセプトが大学生たちにはやや抵抗があるようである。また、地域経済分析システム(RESAS)は、人口動態や産業構造、人の流れなどの官民ビッグデータを集約し、可視化するシステムである。出力された結果がヒートマップなど視覚的なインパクトがあり、数値情報が分かりやすい形で得られる点で優れている。

     いずれも「地域」を理解するツールや教材として可能性を秘めていると思われるが、特に「統計ダッシュボード」は自分のPCをあれこれ操作しながら様々なデータを比較することができる点で優れており、この色々動かすことができる点が学生たちに「ウケている(?)」ように思われる。

     「自分で調べる技術」をテーマとする授業は、始めたばかりで試行錯誤が続いている。だが授業後のリアクションペーパーでは、「哲学的な思考方法が好きだが、グラフを見て数字やデータから何かを考えるのも良いかもしれない」「これまで調べてこいということは授業やゼミで沢山言われてきた。しかし調べることを細かく教える授業を始めて受けた」という趣旨のコメントを出してくれる学生が少しずつだが出始めている。

     微かな手ごたえを感じつつも、個々の政府統計に関する知識を理解させること、得らえたデータの読み解き方(解釈法)などの学習が課題となっている。今後も地域社会や地域政策を理解する基礎として、一人でも多くの学生が「自分で調べる技術」を身に付け、さらには教養としての統計的思考力が実践できるよう工夫を凝らしていきたい。
    ラムサール条約登録地「涸沼(ひぬま)への道程」-茨城町長を訪ねて-(2021年10月1日掲載)
    現代教養学部長 佐藤 寛
     筆者は、2021年2月21日、茨城県開発公社主催の「涸沼(ひぬま)の野鳥観察会」にSDGsの視点から参加した。そして、8月4日に再度涸沼を訪れた。再訪の理由はラムサール条約登録地への背景(道程)等の経緯を茨城町の小林宣夫町長に直接うかがう機会を得たからである。
     2015(平成27)年5月28日にラムサール条約に登録され、茨城県では渡良瀬遊水地に続いて、2件目、日本では47番目の登録地となった。

     涸沼を瞥見すれば、位置は茨城県中部の茨城町、大洗町、鉾田市にまたがる。今から6千年前は海で、その後、海水面が上昇して河川の出入り口を土石によってふさがれて形成されたと称されている。流域面積:439km2、湖面積:9.30km2の汽水湖である。この涸沼には多様な動植物が豊富に生息している。魚類ではボラ、マハゼや淡水魚の鯉、鮒等が生息する。汽水域のヤマトシジミは涸沼を代表する特産物として有名である。また、鳥類はオオワシ、ミサゴ等をはじめ88種以上確認されている。昆虫類では、ウチヤマヤンマやナゴヤサナエ、そしてヒヌマイトトンボが生息し茨城町の天然記念物となっている。

     上記のような自然豊かな涸沼のラムサール条約登録への道程について尋ねた。

    <「涸沼」のラムサール条約湿地登録への経緯>
    1. 2010(平成22)年9月に環境省において、科学的・客観的な見地から県内3箇所(霞ケ浦・北浦、涸沼、利根川下流域)が潜在候補地として選定された。(涸沼は基準2:ヒヌマイトトンボ、基準6:スズガモとして選定)
    2. 2013(平成25)年3月に策定された茨城町環境基本計画において、涸沼のラサール条約登録を目指すことを盛り込んだ。
    3. 2013(平成25)年5月に茨城県から涸沼をラサール条約登録することを目指す旨の説明があった。
    4. ラサール条約登録に関し、新たに生じる規制や制限、課題等について、茨城県及び近隣市町村と共に勉強会を実施し、次の通り整理した。
      イ.登録にあたり、新たな規制や制限ついて―新たな規制や制限は生じない
      ロ.課題
      〇ラムサール条約の3つの柱
      〇住民への意識啓発・浸透
      〇地元機運醸成
      〇登録後の涸沼の活用
      以上の課題が掲げられて、その対応を行った。

     2015(平成27)年5月28日、ラムサール条約湿地に登録され、同年6月3日、ウルグアイにて開催された第12回ラムサール条約締約国会議において、条約登録認定授与式が行われた。

     上記のとおりラムサール条約登録での背景を簡単に記したが、その他にも住民との関係や隣接の市町との協力関係等沢山の質問に懇切丁寧にお話を頂いた。本来なら30分の予定であったが1時間30分におよぶ時間を割いて頂いた。

     小林町長は、大正時代の涸沼は現在の面積の2倍以上あり、その後干拓によって約半分に減少してしまい、当時のまま残っていたらどんなに素晴らしかったかと残念そうにお話されていたことが非常に印象的であった。今回のラムサール条約登録を牽引した一人として小林宣夫町長の決断と努力は後世への自然環境保全や地域保全への足跡を残し重責を果たしたものと高く評価される。

     今回の訪問に際し、小林宣夫町長、小室雅明町長公室・地域政策課長、田口眞一生涯学習課長、清水邦明地域政策課長補佐の皆様には大変お忙しいところ長時間にわたり、ご教示くださりました事を心から感謝申し上げます。

    参考資料:『ラムサール条約登録湿地 汽水湖涸沼』ラムサール条約登録湿地ひぬまの会発行

    小林宣夫町長と佐藤学部長

    2021年8月4日 茨城町役場にて 小林宣夫町長(左)と筆者

    真夏の涸沼

    2021年8月4日 真夏の涸沼 撮影:筆者
    住民投票と外国人(2021年9月1日掲載)
    中央学院大学社会システム研究所教授 福嶋浩彦
     昨年11月1日、いわゆる「大阪都構想」の2度目の住民投票が行われた。大阪市を廃止し、代わりに大阪府に4つの特別区を置くことを問うものだ。決定権を持つのは220万人の大阪市民である。結果は周知の通り、「大阪都構想」は2015年の1度目に続いて小差で否決され、大阪市の存続が決まった。
     ここではその是非について論じるわけではない。取り上げたいのは「みんなで住民投票!」という会が、住民投票への外国人住民の参加を求め、2度にわたり最大3万筆を超える署名を添えて大阪市会と国会に陳情・請願を出したことだ。
     外国人住民の参加は結局、実現しなかった。しかし、住民投票に合わせて同会が行ったアンケートでは、90%以上が「外国人住民も投票できるようにすべき」と回答している。アンケート対象は18歳以上の外国籍の大阪市民で、回答者は40カ国の873人だ。外国人住民も投票できるようにする理由としては「納税の義務を果たしている」「住民としての当然の権利」などが多かった(「みんなで住民投票!」ホームページ参照)。

     大阪都構想の住民投票は法律(大都市地域特別区設置法)によって定められているが、さらに地方自治体は、自らの条例に基づき住民投票を行うことができる。学校へのエアコン設置、役所新庁舎の建設、大手書店による公立図書館の管理運営など、住民生活に直結する問題で行われることも多い。納税者として、生活者として、住民投票に外国人住民も参加して当前と考えるが、実際は外国人住民の参加無しに行われるものがほとんどだ。
     地方自治法10条では、自治体内に住所を有するものを「住民」とし、自治体のサービスを受ける権利と納税の義務を定めている。この住民には外国人も含まれる。なぜなら、選挙権を定めた11条、条例の直接請求権や事務監査請求権を定めた12条、議会解散やリコールの請求権を定めた13条では、「日本国民たる住民」として区別しているからである。つまり、外国人も住民として認め、サービスを受ける権利も納税義務もあるが、選挙権をはじめとする参政権は認めないというのが地方自治法の考え方だ。
     それでは、現在広く行われている住民参加・住民参画についてはどう考えるのか。地域の一員として、あるいは納税者として、生活に直結するサービスに意見を述べたり、住みよいまちにするために共に考えたりする権利が保証される必要がある。こうした広い意味での参政権は認められなければならない。

     自治体の条例で定める住民投票は、法律で定める住民投票と異なり、住民投票の結果が直ちに自治体の決定とはならず、法的決定権を持つ議会や首長が住民投票の結果を尊重して決定する仕組みになっている。もちろん、住民投票で示された意思に対する尊重義務は限りなく重いが、住民参加・住民参画として外国人の投票権を認めることは、現行の地方自治法の趣旨に反するものではない。
     なお、基地がある自治体などで、住民投票のテーマと安全保障上の判断が重なる可能性がある場合は、外国人の除外規定を設けるなど、自治体が自分の地域の実情に応じて制度設計すればよい。

     こうした考え方に基づき、「我孫子市市民投票条例」では永住外国人の投票権を認めている。同条例は、一定数の市民から請求があれば必ず住民投票を実施する制度を設けておくもので、常設型(実施必至型)住民投票制度と呼ばれる。残念ながら、全国でこの制度を持つ自治体はまだ少ない。
     住民投票に限らず、地域の政治・行政への外国人住民の参加・参画を一つ一つ積み重ねていきたい。その上で、地方自治体では外国人住民の参政権自体をできる限り保証できるよう、法改正を含めた改革に取り組んでいきたい。
    グローカルデザイン実践:一つの試み(2021年7月14日掲載)
    一般社団法人日本グローバルイニシアティブ協会 綿貫雅一
     今回グローカルデザインについて再度その本質について考えてみた。誰か具体的にこの様な取組をしている人はいないかと考えていたところ、割と身近なところにその実践者がいることに気が付いた。改めて彼の活動を聞いたところ、正にグローカルデザインそのものに深く関わっているのでここに紹介したい。

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     彼の名前は異色の経歴を持つ英国生まれのアダム・フルフォード。今から40年前の1981年、日本でバブル時代が始まろうとしていた時期に若干24歳で初めてイギリスから来日、日本の美しい風景、歴史や文化の虜となる。来日後、NHKのラジオ番組などで英語ニュースの編集やアナウンスなどを手がけ、1985年には日本で番組の台本の編集・翻訳を主とする会社を東京都内に起業。

     そんな都心中心の活動から、2010年に農林水産省主催の「美の里づくりコンクール」の審査員に任命されたことをきっかけに沖縄から北海道まで日本各地の里山を訪問することになり、日本の里山と繋がることになる。この活動のなかで、「心の故郷、インスピレーションの源、そして人生の使命を果たす場所」と言わしめる山形県の奥地にある小さな村落と出会うことになる。

     その里山は雄大な飯豊山の麓にあり、自然を生かした地域づくりが評価され、2014年に農林水産大臣賞を受賞した山形県飯豊町の中津川地区。人口は250人ほどで平均年齢60歳以上と、新しい人々との交流がなければいずれは消滅してしまう危機にある小さな村落。

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    飯豊町職員との会議
     中津川の村づくり協議会から「中津川の魅力を外国の人に広めたい」との依頼を受け、2014年にコミュニティーコンサルタントに就任し「外者」の目線から村を活気づけるアイデアを導きだす活動を実践。その一つが「一期一会」を意味する「NowHow (ナウハウ)」と呼ぶ活動である。国内外の人々を招待し、地域は勿論、未来にも貢献しながら、里山に根付く伝統的な暮らしや日本文化の源泉を体験し、参加者がそれらを改めて発見できる「貢献型観光」の輪を広げていくという地元に密着した活動である。

     更に、希望する外国人を村に受け入れ、英会話教室や観光施設での英語対応など村の活動に貢献してもらう「仮村民」プロジェクトも企画中であるとのこと。

     アダムの理念と熱意を紹介したい。
     『こうした取組みを通して村に若い人を呼び込んで活気づけ、経済循環を生み出していく。最終的には今まで実施したこれらの活動をどの集落も利用できるひとつのパッケージとしてまとめ、「集落OS」として世界に広めていきたい。日本全国や海外にある集落も「集落OS」の中の「貢献型観光」や「仮村民」など様々な「アプリ」を活用することにより、自立した集落の存続につなげられる。中津川でこれらの活動を成功させ、日本や世界各地の集落にこの「集落OS」を広げてきたい。』

     正にこのアダムの取組みは、少子高齢化や人口流出に悩む地方にとって、活力を取戻す対策の一つである。そして、グローカルデザインの正に実践例であり、学ぶべき多くのことを包含しているといえるのではないだろうか。

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    NowHow実施の様子

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    村民との懇談
    商店街の復権はなるか?(2021年5月17日掲載)
    中央学院大学社会システム研究所長、現代教養学部教授 中川淳司
     コロナ禍で外出も自粛の日々が続いている。気晴らしを兼ねて、週末、家内と二人、商店街に買い物に出かけるようになった。住まい(東京都台東区)の近所の商店街を振り出しに、30分も歩けば行き当たる同じ区内の商店街、最近は地下鉄を乗り継いで他の区の商店街にも足を伸ばしている。これが、なかなか楽しい。

     量販店に押されて商店街の衰退が言われるようになって久しい。なるほど、元気がない商店街も多い。苦戦しているのは、時代の流れで業態が大きく変わった店である。洋品店や電気屋さんの多くは量販店に取って代わられたようだ。ベッドが主流になるとお布団屋さんは苦しいだろう。本屋さんはAmazonに押されたか。洋裁がかつてほど流行らないとミシン屋さんも厳しそうだ。店をたたんで「シャッター街」になっているところも多いし、代替わりして全国チェーンのコンビニやファストフード店が入居している区画も目につく。

     その一方で、元気に営業している店もまだまだ多い。たくさんのお客さんを集めている八百屋さんや魚屋さんがある。行列ができる店の多くは、買ってすぐ食べられるお惣菜を売る店である。コロッケやとんかつなどの揚げ物を売るお肉屋さん、焼き鳥専門店、煮物・煮豆の店などなど。お団子や大福等の餅菓子を商うお店も頑張っている。

     世はキャッシュレスの時代に向かっているが、商店街ではまだまだ現金が活躍する。あれこれ品定めをして、行列し、注文して支払い、品物を受け取るその流れが心地よく感じられるのはなぜだろうか?詰まるところそれは、対面販売とコミュニケーションの温もりではあるまいか。その温もりは、帰宅して買ったものを食卓に並べ、晩酌しながら箸を付けるまで持続している。量販店やコンビニで食材を買って帰るのが味気なく思えてくる。

     都内あちこちの商店街を訪問するようになって気づいたことがある。商店街は高齢者に優しい。ご近所住まいと思われるお年寄りが、ショッピングカートを引いて買い物に来ている。行きつけのお店なのだろう。野菜を一つ一つ手に取って選び、買っていく。お店の人の応対はていねいだ。週末の買い出しだろうか、小さな子供を自転車に乗せたお父さんお母さんの姿も目に付く。

     私たちのように、地下鉄を乗り継いでやってくる客も混じっているが、商店街の商圏は通常、自転車でやってこれる2~3km以内といったところだろう。流行る店廃る店の新陳代謝は仕方がないとしても、地元に欠かせない商業インフラとして、これからも商店街には頑張ってもらわないといけないと思う。

     さあて、今度の週末はどこの商店街に行ってみようか。
     
    日本人住民と外国人住民とが共に暮らす社会を創るために(2021年5月7日掲載)
    共愛学園前橋国際大学 国際社会学部 准教授 西舘 崇
     筆者が住む群馬県は、多くの外国人が暮らす日本有数の地方自治体である。その数は2020年12月の時点で61,461人で、県人口の3.1%に及ぶ。2020年はコロナ禍による入国制限の影響も受けたが、外国人住民数は減少せず、その伸び率は前年比で2.4%増となり、5年連続での過去最多を更新した。

     国別では、ブラジルが最も多く12,750人で、その次はベトナムが11,002人、フィリピンが7,766人と続く。これまでは中国やペルーも上位に入っていたが、近年では東南アジア系が増えている。中でもベトナム人は大幅な増加傾向にあり、2018年は8,174 人(前年比16.5%)、2019年は9,836人(前年比20.3%)で、1万人を超えた昨年は前年比で11.9%増であった。市町村別では、伊勢崎市が最も多く13,390人で、太田市12,007人、大泉町7,860人、前橋市7,387人、高崎市5,924人と続く。なお、これら5市町で、県全体の外国籍住民数の75%を占める。

     さて、6万人規模の外国人と共に暮らす群馬県民の意識について考える上で、一つ重要な調査結果がある。それは2016年に県が実施した「定住外国人実態調査」だ。日本人住民と外国人住民の双方に対して行われたこの調査は、交流や関わり合いなどに関する両者の意識の差を浮き彫りにしている。

     例えば、「日本人と積極的に交流したい」と考えている外国人住民は67.0%いるのに対し、外国人との関わりを深めたいと考える日本人は13.6%に留まる。残りは「生活上、必要最低限は(交流)したほうがよい」が50.6%、「特に深めなくとも良い」が20.0%という結果であった。

     外国人が地域に増えたり、活躍したりすることに対する日本人の考えにも温度差がある。外国人が増えることについては、複数回答可で「労働力が補充される」が75.4%で最も多く、「治安・風紀が乱れる」(55.5%)、「地域の活性化につながる」(53.6%)、「日本固有の文化がそこなわれる」(22.5%)と続く。外国人の活躍については、「好ましい」と答えたのは48.0%で、「わからない」が31.7%、「好ましくない」が18.5%であった。

     このような状況下で、いかに日本人と外国人とが安心して暮らすことのできる社会を創るか。様々な方策があり得ると思うが、私は今、三つのタイプの「対話」の可能性に注目している。それらは、日本人と外国人の対話、日本人同士の対話、外国人同士の対話、である。

     相互の理解を促すという点で、日本人と外国人の対話は言うまでもなく重要だ。しかし、残り二つの対話も同じように大切ではなかろうか。例えば、日本人同士の対話は、外国人住民を受け入れる地域の土台を作る上で不可欠であろう。外国人同士の対話は、先輩外国人の知恵や経験を、後輩外国人に伝える機会になると思う。

     多文化共生や国際理解をめぐる従来の議論においては、とかく日本人対外国人の対話が重視されてきたと思う。しかし私は、日本人同士の、さらには外国人同士の対話にも、より大きな関心が集まって良いのではないかと考えている。グローカルデザイン・プロジェクトの一員として、地域を創る「対話」の可能性について考えたい。
    RESASを使って身近な地域を「知る」「考える」(2021年3月29日掲載)
    中央学院大学社会システム研究所特別研究員、現代教養学部准教授 林 健一
     
     著者は、千葉県、我孫子市、東葛地域など、身近な地域の具体像と現在直面している課題を知り、生活者の視点から諸課題の解決方法を考えるための講義として「地域と社会」と「地域連携講座」(いずれも2年次以上配当・選択必修2単位)を担当しているが、これらの授業の一環として、2018年度の開講当初から、地域経済分析システム(RESAS)を活用した演習を講義に取り入れている。

     RESASは、周知のとおり、人口動態や産業構造、人の流れなどの官民ビッグデータを集約し、可視化するシステムとして、2015年4月から、経済産業省と内閣官房(まち・ひと・しごと創生本部事務局)が提供し、地方創生の様々な取組を情報面から支援するものとして、主に地方自治体や企業向けに提供され、広く活用されている。

     私の授業では、統計により身近な地域の姿や課題を探求し、その解決策を模索するためのツールとしてRESASに注目している。授業の導入部分では、国土計画・地域開発の歴史、内発的発展論など、地域政策に関する講義を前段階で行っている。その後、RESASの操作方法を体験してもらい、我孫子市の人口、企業・産業(産業構造・地域経済循環)、農業などに関するデータを題材に、特徴や課題を分析する演習を行っている。

     また、学期末には、好きな地域を受講学生たちに選択させ、選択した地域の人口、産業、観光などについて、RESASや地域に関する統計資料(e-Stat)を活用しながら、各地域の課題を発見し、課題の解決策を提案するレポートを課しているが、2020年度授業のコメントシートでは、学生たちから次の様な感想が寄せられている。
    • 学生Aさん(2年生):「前回と今回の講義のまとめで触れている、我孫子市の農業者の所得向上問題について、私は自分の野菜を加工した調味料や料理を提案することで、消費者の興味を引くことができ、売り上げも上がるのではないかと考える。」
    • 学生Bさん(2年生):「RESASを使って全国各地の産業の内訳等がすぐわかることに驚きました。自分の地域のことはもちろん、近隣の地域や親戚の地域なども簡単に調べることができ、沢山日本のことについて知識として得られるのはすごく便利であるし、様々な地域に興味関心が増えました。どんな産業が有名なのか、どれぐらい影響力のあるものなのかを日本中の都道府県を調べてみて、知識として得たいと思いました。」

     RESASは、花火図やヒートマップなど視覚的なインパクトがあり、数値情報が分かりやすい形で得られ、表、グラフ、図が自動的に作成されるなど、地域を理解するツールや教材としても可能性を秘めているように思われる。
     ただ、著者の力量不足から、地域経済循環構造などを読み解くために必要な地域経済に関する理論や、データ分析や分析指標に関する基礎知識について、限られた講義時間で解説し、学生たちの理解を得ていくことが難しいと感じており、大学教育におけるRESASの活用についてもさらに模索していきたい。
    ラムサール条約登録地「涸沼(ひぬま)」を訪ねて(2021年3月1日掲載)
    中央学院大学社会システム研究所特別研究員、現代教養学部長 佐藤 寛
     2021年2月21日、茨城県開発公社主催の「涸沼(ひぬま)の野鳥観察会」にSDGsの視点から参加した。この涸沼は、2015(平成27)年5月28日にラムサール条約に登録され、茨城県では渡良瀬遊水地に続いて、2件目の登録地となった。ラムサール条約の登録には9つの国際基準のいずれかをクリアしなければならないが、涸沼は幸いに3基準を満たした。

    ラムサール条約登録地「涸沼」を訪れて01

    穏やかな涸沼
     涸沼は茨城県の中央部に位置し鉾田市、大洗町、茨城町の3市町に跨る関東地方で唯一の汽水湖である。満潮時には那珂川・涸沼川を介して海水が逆流し、海水と淡水が混ざり合う。周囲23.9Km、面積9.35Km2、平均深水2.1m、最大深水6.5mである。涸沼には鳥類、昆虫類、魚類、爬虫類、植物など多様な生き物が生息している。特に、鳥類は88種類以上確認されており、マガモやスズガモなど毎年1万羽以上が飛来し、越冬地として重要である。中でもオオワシやオオセッカは条約登録の要件となった絶滅危惧類で、涸沼の代表的な渡り鳥である。オオワシは残念ながら今季は2月21日現在まで確認されていないと案内の方より説明を受けた。他の渡り鳥のマガモやホオジロガモなどの群れが湖面を悠然と泳ぎ、その中で、カンムリカイツブリが餌を採る光景に感動した。昆虫類では、チョウ48種、トンボ43種が確認され、新種のヒヌマイトトンボの生息が確認されている。

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    ラムサール登録地案内板
     今回は、観察会を通じて涸沼を見聞した。当初は涸沼とはなかなか珍しい字と思い、この地を訪ねてみると数多くの自然環境の資源が存在していることに気づかされた。

     現在、プロジェクト研究「グローカルデザイン」に参加させていただいている。この研究プロジェクトの趣旨によれば、グローカルの言葉の表現や目的、研究作業などに鑑みると、グローカルという言葉は日本や世界の地域とグローバルなつながりを持つと表現している。今回のラムサール条約登録地「涸沼」は、自然環境の豊かな地域であると同時に、「渡り鳥」を介して世界の国々や地域とつながっている。渡り鳥は、往来する国・地域との間での自然環境保全は基より地域の文化・歴史や地域のコミュニケーション、地域活性化などに重要な役割を担っている。

     私が研究プロジェクトを担当している我孫子市にも手賀沼があり、ここにも多くの渡り鳥や昆虫類、爬虫類などが生息している。自然環境保全として、我孫子市や市民団体、商工会などの団体と協力して、涸沼のラムサール条約登録を目指して立ち上げた茨城県、鉾田市、大洗町、茨城町のような活動を参考として、この研究の目的である「地域独自の歴史・文化・社会・自然環境などの資源を活性化して地域の経済社会の将来を構成」を考察して行く所存である。

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    観察会の様子

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    涸沼で羽を休める渡り鳥
    人口減少とグローカルデザイン(2021年1月8日掲載)
    中央学院大学社会システム研究所教授 福嶋浩彦
     
     地球規模で考えて地域で行動するという「グローカル」が提起されてかなり経つ。この発想を進化させつつ具体的に展開するグローカルデザインは、とくに人口減少社会において重要になると考える。

     これから50~60年は、出生率が上がっても、日本全体の人口は確実に減る。団塊の世代ジュニアが高齢化して子どもを産む世代から外れ、子どもを産む世代自体が大きく減るからだ。そんな中、ほとんどの自治体が「わがまちの人口減を食い止めたい」と言っている。「わがまちの人口減を小さく」しようと思えば、「他のまちの人口減を大きく」しなければならない。結局、「地方創生」の掛け声のもと、自治体同士が人口の奪い合い=つぶし合いをやっている。こんな先に地域の未来はない。

     人口が減っても市民が幸せになれる持続可能な社会を作りたい。キーワードの一つは、社会のあらゆる仕組みを「うまく小さくして質を高める」ことだ。エネルギーの地産地消、公共施設の共有化・多機能化・民間化など各分野にわたる。医療・福祉は最も難しいが例外ではない。また、個人消費を増やし経済成長すると国民が幸せになるという20世紀の公式は乗り越える必要がある。

     二つ目のキーワードは、「地域の国際化」だ。地域の文化や経済に外国人の力が不可欠になっている。外国人が普通の隣人として生きていける地域にする必要がある。2020年11月の「大阪都構想」の住民投票では、永住外国人にも投票権を―という運動があったが、2004年に制定された我孫子市の常設型住民投票条例では、すでに永住外国人の投票権を認めている。身近なことを含め、根本から既成概念を改める必要がある。

     三つ目のキーワードは「自治体の自立」だ。拡大の時代は、国の方針に沿って補助金を貰えば表面的には成功したかもしれない。しかし質を高める時代は、自らの頭で考え、自らの責任で決めていくしかない。しかし残念ながら地方創生の中で、「自分の自治体の市民が幸せになるには何をやらねばならないか」ではなく、「どんな計画を作れば国からOKが出るか」「どんな事業をやれば国が交付金をくれるか」と、市民ではなく国ばかリを見る自治体が増えた。

     新型コロナ感染対策においても、国の指示をただ実行するだけの自治体が目立つ。一方、世田谷区では、介護事業所、障害者施設、保育園・幼稚園などを対象に、無症状でも「社会的検査」として約3万9千人にPCR検査をする体制を整えた。公募型プロポーザルで民間事業者を選び、人的に限界の保健所にこれ以上の負荷をかけない制度設計にしている。現場を持つ自治体は強い。市民のニーズを踏まえた具体的取り組みは国をも動かす。国の指示待ちでは何も始まらない。今回のグローカルデザイン研究でも、とくに自治体の自立をベースにして考えていきたい。
    那須塩原市を訪ねて(2020年11月25日掲載)
    一般社団法人日本グローバルイニシアティブ協会 綿貫雅一
     
     今回、グローカルデザインのメンバー3名(中川PL、綿貫、西舘)が、2日間にわたり研究対象自治体の一つである那須塩原市を訪問し、関係機関からの意見交換と観光資源の確認に当たった。以下にその報告と感想を認めたい。率直に言って、栃木県出身でありながら、長く海外に生活をしていたこともあり、地元県に対する知識の浅さを痛感すると共に、那須塩原の魅力に改めて気づかされた訪問であった。

     先ず市役所を訪問。渡辺市長からブリーフィングを頂き、市の基本的な構想や戦略を伺った。また研究会の趣旨に賛同頂き、色々とご協力頂けることとなった。その後、市の担当者の同行のもと、商工会、JA、観光協会を訪問し、関係機関トップとの率直な意見交換を行うことができた。首都東京から150キロほどの近距離にあるにも拘らず、同時に地方が抱える特有の課題に直面している厳しい現実を知る機会となった。
     一方で那須塩原は、開湯から1200年の歴史をもち「三大美人泉質」で知られる塩原温泉、また湯治の里で知られる板室温泉を有する国内でも有数の温泉の名所でもある。国内の温泉ランキングでは、全国の中で上位を占めるものの、草津、鬼怒川、熱海など温泉名所の後塵を拝し、如何に知名度を上げるかが大きな課題であるとの認識であった。

     那須塩原は、文化財の宝庫の地でもある。歴史と文化を物語る国・県・市指定の文化財は178件に及ぶ。中でも、明治初期に建設された那須疎水は、安積疎水、琵琶湖疎水と並び、歴史に名を連ねる日本三大疎水の一つである。広大で平坦な日本最大の扇状地「那須野が原」の原野を開拓するために建設された施設は、当時の開拓の足跡を今に残す重要な文化遺産である。

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    那須疎水取水口跡
     更に那須塩原は、日本遺産にも指定されている「明治政府の要職を務めた貴族たちのロマン」ゆかりの地でもある。明治維新を牽引した元勲や政府の要職を歴任した貴族たちの近代化建設の情熱と西欧文化への憧れに触れることができる素晴らしい文化遺産である。今回、当時ドイツ公使で、後に外務大臣となった青木周蔵子爵の旧青木家那須別邸を訪問した。一つ一つの展示物に当時の面影が残っており、ドイツへの強い思い入れが感じられ、まるでタイムスリップしたかのような束の間の一時を味わうことができた。

     そして、最後にグローカルデザインに最も関連性のある人との出会いである。中川先生が長く懇意にされている方で、10年以上にわたり旅館・アート・温泉の構想のもと「アートスタイル経営」を理念に、板室温泉で老舗の旅館大黒屋を経営している室井代表である。現代アートに造形が深く、世界との懸け橋となり美術を通して、地域おこしや世界と繋がる展開を実践されている。

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    旧青木家那須別邸

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    アートスタイル経営を理念とする大黒屋の庭園
     今回、短い期間ながら、那須塩原市の現状、特性、潜在性また関連資源の確認を目的に訪問したが、大きな収穫があった。研究会を通して、これらの資源を有機的に連携したグローカルデザインの提案を行っていきたい。

     最後に、今回の訪問の調整に協力を頂いた那須塩原市、また関係機関他お世話になった方々に御礼を申し上げ、実り多き2日間の那須塩原市訪問の報告としたい。
    日本人の美意識(2020年10月5日掲載)
    中央学院大学社会システム研究所長、現代教養学部教授 中川淳司
     
     数年前のことになる。グラフィックデザイナー原研哉の名著『日本のデザイン』(岩波新書、2011年)を手に取り、冒頭の次の個所に思わず膝を叩いた。私も全く同じことを感じていたからだ。

     「東京の国際空港に降り立ち、素っ気ない空間を入国審査所に向かって歩き始める時、きまって感じることがある。空間は面白みがなく無機質だが、なんと素晴らしく掃除の行き届いた場所だろうかと。」

     短期の海外出張や海外旅行から帰国した時もそのように感じるけれど、長期の海外滞在から帰国した時にことさらその思いを強くする。慣れ親しんだ滞在先との違いに気づかされるからだろう。それは滞在先が先進国であろうと途上国であろうと変わらない。成田空港も羽田空港も、掃除が行き届いていることでは世界トップクラスである。それだけではない。空港から乗り継ぐ公共交通機関が秒単位でスケジュール通りに運行されていること。車内から目にする街灯が一つとして消えていないこと。それらは日本人にとっては当たり前のことかもしれないが、世界を見渡してみると、稀有の事柄であることがわかる。

     掃除であれ公共交通であれ街路灯の整備であれ、それを担当する人は影ひなたなく自分の職務をきちんとやり遂げることが当然のこととなっている。日本とはそういう国だ。それらがあまねく実行されることで、公共サービスも民間のサービスもきわめて水準が高い。海外で同種のサービスを経験すると、その違いがよくわかる。

     仕事に対する日本人のこのように高い倫理観はどのように培われたのだろう。狭い国土に多くの人が暮らしてきた歴史的な経緯。稲作を中心とする農耕生活で培われた勤勉さ。変化に富み、時に荒々しい風土との対峙。思いつくことはいくつかあるけれど、それらを包含しながら、そのいずれにも還元されない独特の国民性というべき要素が重要ではないだろうか。それは簡素さの美とでも形容されるものである。桂離宮や茶室に凝集される美意識といえるかもしれない。グローカルデザインにおけるローカルな美質・資源をとらえる上では、以上の意味での日本人の美意識を念頭に置くようにしたいと思う。