法学部 法学科
Faculty of Law

川久保ゼミ「広島平和体験学習」実施報告

法学部教授 川久保 文紀

 2022年8月5日(金)より2泊3日の日程で、我孫子市の平和推進事業の一環として行っている中学生の広島派遣に同行する機会を得た。派遣団には星野順一郎市長や丸智彦教育長らが引率する形で、市内6つの中学校から12名の中学生が参加した。コロナ禍で中断していた学外におけるゼミの平和体験学習を再開する良い機会であると考え、ゼミ生7名とともに合流することになった。全国レベルでコロナ感染者が増加している時期でもあり、私も含めて全員が抗原検査を受検し、コロナ感染対策を十分に施した上での広島訪問になった。8月6日の原爆慰霊の日に被爆地広島に身をおくという貴重な経験を学生たちと共有することができたので、ここではその一端をレポートしたい。
◆宮田將則さんのこと
 ゼミ生たちは、8月6日(土)から合流することになったが、私は市の派遣団と一緒に前日に広島入りした。早朝に我孫子駅前のけやきプラザに集合し、東京駅から新幹線で広島に向かった。到着直後の広島は大雨で傘も意味をなさないほどであったが、すぐに晴れ上がり、内海に面する広島特有のジリジリとした蒸し暑さを十数年ぶりに感じることになった。到着した5日は、昼食後、まず国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に向かった。この施設は、原爆死没者を追悼し、恒久平和を祈念するために2002年に開館した、広島平和記念公園のなかにある慰霊施設のなかでは、比較的新しい国の施設である。

国立広島原爆死没者追悼祈念館

国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
 我孫子市の派遣団がこの施設を訪問した目的のひとつは、我孫子市原爆被爆者の会の会長を務められ、2019年に白血病で急逝された宮田將則さん(享年75歳)がこの施設に慰霊されているからであった。遺影コーナーに設置されている12面大型モニターに宮田さんの遺影が映し出されたときに、「わぁー、宮田さんだ。いいお顔されているね」という声が沸き起こった。一緒に派遣団に同行された奥様から、入院して抗がん剤治療を始められる前日のお写真であるとうかがった。宮田さんは、中央学院大学の平和教育の展開を見守ってくれた方であり、私自身、大変お世話になった。2015年のあびこ祭における特別企画「戦後70周年 平和をつなぐ」や被爆者体験談を行う際には、被爆者としてのアドバイスをくださり、大学にも毎回足を運んで頂いた。何年か前に、朝の我孫子駅前で偶然お会いし、「先生、近いうちに一杯やりましょう」と笑顔でお声がけくださった日のことをよく覚えているが、それも叶わなくなった。
◆広島平和記念式典に参列して
 被爆から77年目を迎えた8月6日、私は8時から開催される平和記念式典に参列した。平和記念式典とは略称であり、正式名称は、広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式という。コロナ禍において規模を縮小しての開催であったが、114カ国からの代表を含めて2,854名が参列した。私は、我孫子市原爆被爆者の会の前会長である的山ケイ子さんのご厚意によって、的山さんに帯同するという形で来賓席に近いかなり前方の席に座ることができた。全参列者とともに原爆が投下された8時15分に黙とうを捧げたが、被爆地広島において、8月6日の原爆投下時間に黙とうを捧げることの厳粛さに身震いがする思いであった。

原爆慰霊の日の平和記念資料館

原爆慰霊の日の平和記念資料館
 広島市長の「平和宣言」の後、放鳩が行われ、子ども代表による「平和への誓い」、岸田首相やグテーレス国連事務総長のあいさつを間近に聞くことができた。とくに、「平和への誓い」の中で発せられた、「過去に起こったことは変えることはできません。しかし未来は創ることができます。」という子どもたちの力強い言葉に、式典全体に凛とした雰囲気が広がった。核の使用に言及する為政者が現在もいる世界の現状を直視すれば、なおさらであった。
◆佐々木禎子さんと千羽鶴
 式典後、派遣中学生たちは、各中学校から持ち寄った千羽鶴を平和記念公園内にある「原爆の子の像」に奉納した。この像のモデルとなった佐々木禎子さんは、2歳のときに爆心地近くの自宅で被爆し、12歳のときに白血病を突然発症して亡くなった。佐々木さんが闘病中に「生きたい」という願いから千羽鶴を折ったことが、この像のモデルとなったとされている。我孫子市の手賀沼のほとりにある生涯学習センター「アビスタ」には、禎子さんが生前に折った貴重な折り鶴が常設展示されているが、これは禎子さんのご遺族が我孫子市の展開する積極的な平和推進事業に共鳴して寄贈されたという経緯がある。

中学生たちによる千羽鶴奉納

中学生たちによる千羽鶴奉納
 6日の午後からは、爆心地に近い本川小学校平和資料館などを見学する予定となっていたが、ゼミ生たちもここから合流することになった。さまざまな形で行動を制限されるコロナ禍において学生生活を送るゼミ生たちにとっては、キャンパス外での「現場」体験をするとても貴重な機会であった。遠方でもあり、参加希望者は少ないであろうと当初は予想していたが、実際には全員が手を挙げたことに驚いた。本川小学校平和資料館において、我孫子市の派遣団と初顔合わせとなったが、キャンパスで接するゼミ生たちの表情とは異なり、表現しがたいほどに生き生きとしていた。中学生と大学生が、平和を継承するという視点で交流を行うという、またとない機会になったのである。

本川小学校平和資料館

本川小学校平和資料館
 本川小学校は、原爆の被害をそのままの形で保存している小学校であり、約400名の子どもたちが一瞬にして命を失った場所である。被爆直後の様子の写真や遺物が多数展示されているが、被爆の2年後にはコンクリート校舎の残骸の中で授業を再開した風景写真の前で、多くの学生たちが足を止めていたことが印象に残っている。
◆多聞院と広島平和記念資料館
 8月7日(日)の朝、原爆投下時間に合わせて、爆心地から1.75キロの比治山公園内にある真言宗多聞院を訪問した。『日本外史』を著した頼山陽の一族の墓があり、県指定の史跡になっている。この寺では、被爆時間の8時15分に毎朝、鐘を鳴らすことになっており、中学生たちも平和への想いを込めて鐘をついた。またここは、被爆直後に倒壊した県庁に替わって広島県防空本部が設置された場所であり、救援物資やおにぎりの配給を行ったことでも知られている。驚いたことに、猛烈な爆風によって梁を破損しながらも、応急措置を施しただけで鐘楼は当時のまま現在も使われているということであった。ご住職によれば、戦時中の金属供出によって被爆当時は鐘が外されてあり、爆風が鐘楼を通り抜ける形になったからではないかと話されていた。今日のような快晴の朝のこの時間帯に、多くの人々の何気ない日常が一瞬にして地獄に変わってしまったことを想像して、境内を見渡してみてくださいというご住職の言葉が耳に残っている。

被爆当時のままの多門院の鐘楼

被爆当時のままの多聞院の鐘楼

天井部分が当時のまま崩落している

天井部分が当時のまま崩落している
 その後、5日に引き続き平和記念資料館を訪れたが、6日から合流したゼミ生たちにとっては、今回初の訪問となった。平和記念資料館は1955年に開館し、現在は東館(東側)、本館(中央)、国際会議場(西側)から構成される建築物である。この平和記念資料館と広島平和記念公園は、東京都庁などを建築した世界的な建築家丹下健三氏による設計であるが、資料館本館のピロティ部分(2階以上の建築物で1階部分は壁がない柱だけの抜き抜け空間)から覗けば、埴輪を模して造られた広島平和都市記念碑(通称:原爆慰霊碑)、そして原爆ドームが一直線にみえる配置になっていることは有名である。

広島平和記念資料館にて

広島平和記念資料館にて
 私自身十数年ぶりの見学となったので、以前どのような展示になっていたのかを記憶から掘り探ることは難しかったが、開館から65年を迎えた2020年、平和記念資料館の展示物が全面的に更新されたことは著作等で知っていた(志賀賢治著『広島平和記念資料館は問いかける』岩波新書、2020年)。「実物」の被害を語り伝えるテーマは維持しつつも、実際に被爆した一人ひとりの「人間」に焦点をあてる構成になっており、訪問者各自の「感性」に訴えかける展示となっていた。学生たちは、被爆の実相を伝える一つひとつの展示に足を止め、被爆者や遺品展示物からの「声なき声」に耳を傾けようとしているようにみえた。知識はあとからでも付いてくるので、みずから感じたありのままの印象や感覚を大切にして欲しいという星野市長の言葉は、ここで意味をもつのだと感じた。学生たちからは、1時間半の滞在はあっという間で、もっとあの空間にいたかったという多くの感想を退館後耳にした。

爆心地近くの相生橋にて

爆心地近くの相生橋にて
◆被爆者体験講話
 そして、今回の訪問のクライマックスともいえる追悼平和祈念館での被爆体験講話に臨んだ。講話をされた被爆者の方は当時6歳であり、被爆直後の壮絶な経験を話してくださった。ご自身は、自宅の庭でみつけたベンケイガニを取ろうとしてちょうど身をかがめた瞬間、爆風で防空壕の中へ押し飛ばされたことによって事なきを得たと語られていたが、自分以外で生き残った唯一の家族である母親が亡くなったときはまだ15歳。現在の平和な社会を生きる学生たちに対して、核兵器の恐ろしさばかりではなく、戦時中の言論統制が敷かれた窮屈な社会の実態まで話してくださり、社会が間違った方向へ向かうと感じたときに、たとえ少数意見であってもそれが尊重される社会をつくっていくことが大事であると力強く説かれた。壮絶な被爆体験を語ることはあまりにつらく、これまでは家族にさえ話すことをためらってきたと述べられたうえで、今年4月になり、生き残った被爆者の責務としてこれからの世代に被爆体験を伝える決意をされたとのことである。被爆体験を語ることのできる人間が段々といなくなってきている現状を憂いながらも、「今日の私の話をきいてくれた皆さんの真剣な表情に感動している」と述べられたときには、世代間で平和をつなぐ責任の大きさを会場全体で共有できたような気がしている。

被爆者体験講話

被爆者体験講話

ゼミ生による質問風景

ゼミ生による質問風景
◆平和をつなぐ
 折しも広島を訪れた時期は、ニューヨークにおいてNPT(核拡散防止条約)再検討会議が開催されている最中であった。昨年には核兵器禁止条約が発効し、核軍縮を進める機運が世界中で高まっているように思えたが、その機運に逆行するかのように、核の使用をちらつかせたロシアによるウクライナ侵攻が今年2月から続いている。広島訪問前にグテーレス国連事務総長は、ひとつの誤算によって人類は滅亡してしまうという核戦争のリスクに警鐘を鳴らしたが、学生たちにとっては、このような時代状況を真正面から見据えて、「自分たちにできることは何か」を議論し、考えることの重要性を体得できた広島訪問になったと思う。今回の訪問にあたって、星野市長や丸教育長をはじめとして、我孫子市役所企画政策課の皆さんにも大変お世話になった。若い世代のための未来への取り組みを積極的に行っている我孫子市の平和推進事業に対して敬意と謝意を表し、レポートを締めくくりたい。

派遣団一行と原爆ドームにて(我孫子市提供)

派遣団一行と原爆ドームにて(我孫子市提供)
◆ゼミ生からの感想

過去を知ろうとする姿勢 木更津 蓮音(法学部3年行政コース)

 私は今回生まれて初めて広島を訪れました。それも「原爆慰霊の日」という日本国民にとって忘れてはならない大切な日に。路面を走る広島電車に乗って、車窓からあの原爆ドームを目の当たりにしたとき、私は圧倒されて息をのみました。平和記念公園にはこの悲劇を忘れまいと、観光客はじめたくさんの人が訪れていましたが、その先には普通の日常がありました。まるで別世界のようでした。広島の地はこの日だけは特別なのかと想像していましたが、駅前や大通りにはたくさんの人でにぎわっていて、この日が本当に「原爆慰霊の日」なのかと考えてしまうほどでした。私たちはもっと「過去に何があったのかを知ろうとする姿勢」を持たなくてはなりません。私は、この2日間を通じて、これからの日本人としてあるべき姿とは何かを深く考えさせられました。

これからの私たちの役割 川尻 海斗(法学部3年行政コース)

 今回の広島合宿で私がとくに印象に残っているのは、広島平和記念館への訪問と被爆者による体験講話でした。平和記念資料館における当時の写真や遺品をみて強い衝撃を受けたということ、そして被爆者のお話を直接聞けるという初めての貴重な体験をしたからです。これらによって、私たちの生きている戦争のない平和な今の世の中が、いかに幸せなことかということを実感することができました。被爆体験者の高齢化に伴い、過去の実際に起こった悲惨な話を聞ける機会が減ってきています。今回の被爆体験講話を聞いた私たちが、後の世代にも伝える役割を担う必要があると思いました。ウクライナをはじめとして、今なお世界では戦争が勃発しています。平和な世界を構築するためには、私たちがどのような行動をしていくべきかを考える良い機会になりました。